せながら遊んでいた。そこいらには、首のちぎれた人形も投出してあった。私は炬燵にあたりながら、姉妹《きょうだい》の子供を眺めて、どうして自分の仕事を完成しよう、どうしてその間この子供等を養おう、と思った。
お房は――私の亡くなった母に肖《に》て――頬の紅い、快活な性質の娘であった。妙に私はこの総領の方が贔屓《ひいき》で、家内はまた二番目のお菊贔屓であった。丁度牧野君から子供へと言って貰《もら》って来た葡萄《ぶどう》ジャムの土産《みやげ》があった。それを家内が取出した。家内は、雛《ひな》でも養うように、二人の子供を前に置いて、そのジャムを嘗《な》めさせるやら、菓子|麺包《パン》につけて分けてくれるやらした。
私がどういう心の有様で居るか、何事《なんに》もそんなことは知らないから、お房は機嫌《きげん》よく私の傍へ来て、こんな歌を歌って聞かせた。
「兎、兎、そなたの耳は
どうしてそう長いぞ――
おらが母の、若い時の名物で、
笹の葉ッ子|嚥《の》んだれば
それで、耳が長いぞ」
これは家内が幼少《おさな》い時分に、南部地方から来た下女とやらに習った節で、それを自分の娘に教えたのである。お房が得意の歌である。
私は力を得た。その晩、牧野君へ宛てた長い手紙を書いた。
幸にも、この手紙は私の心を友達へ伝えることが出来た。その返事の来た日から、牧野君は私の仕事に取っての擁護者であった。しかも、それを人に知らそうとしなかった。私は牧野君の深い心づかいを感じた。そして自分のベストを尽すということより外にこの友達の志に酬《むく》うべきものは無いと思った。
四月の始から一週間ばかりかけて、私は家を探しがてら一寸《ちょっと》上京した。渋谷、新宿――あの辺を探しあぐんで、ある日は途中で雨に降られた。角筈《つのはず》に住む水彩画家は、私と前後して信州へ入った人だが、一年ばかりで小諸を引揚げて来た。君は仏蘭西《フランス》へ再度の渡航を終えて、新たに画室を構えていた。そこへ私が訪ねて行って、それから大久保辺を尋ね歩いた。
郊外は開け始める頃であった。そこここの樹木の間には、新しい家屋が光って見えた。一軒、西大久保の植木屋の地内に、往来に沿うて新築中の平屋があったが、それが私の眼に着いた。まだ壁の下塗もしてない位で、大工が入って働いている最中。三人の子供を連れて来てここで仕
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