小諸相生町の角からその馬車に乗った。引越の仕度をするよりも、何よりも、先《ま》ず一人の友達を訪ねて、その人の助力を得たいと思ったのである。その日は他に同行を約束した人もあったが、途中の激寒を懼《おそ》れて見合せた。私は独《ひと》りで出掛けた。雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓を廻るにつれて、乗客は互に膝《ひざ》を突合せて震えた。岩村田で馬車を下りて、それから猶山深く入る前に、私はある休茶屋の炉辺《ろばた》で凍えた身体を温めずにはいられなかった位である。一里半ばかりの間、往来する人も稀《まれ》だった。谷々の氾濫《はんらん》した跡は真白に覆われていた。
 訪ねて行った友達は、牧野君と言って、こういう辺鄙《へんぴ》な山村に住んでいた。ふとしたことから、私はこの若い大地主と深く知るように成ったのである。ここへ訪ねて来る度《たび》に、この友達の静かな書斎や、樹木の多い庭園や、それから好く整理された耕地などを見るのを私は楽みにしていたが、その日に限っては心も沈着《おちつ》かなかった。主人を始め、細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で、小諸に居る人の噂《うわさ》などをした。この温い家庭の空気の中で、唯私は前途のことばかり思い煩《わずら》った。事情を打開けて、話して見よう、話して見ようと思いながら、翌日に成ってもついそれを言出す場合が見当らなかった。
 到頭、言わず仕舞《じまい》に、牧野君の家の門を出た。そして、制《おさ》えがたい落胆と戦いつつ、元来た雪道を岩村田の方へ帰って行った。一時間あまり、乗合馬車の立場《たてば》で待ったが、そこには車夫が多勢集って、戦争の話をしたり、笑ったりしていた。思わず私も喪心した人のように笑った。やがて小諸行の馬車が出た。沈んだ日光は、寒い車の上から、私の眼に映った。林の間は黄に耀《かがや》いた。私は眺め、かつ震えた。小諸の寓居《ぐうきょ》へ帰ってからも、私はそう委《くわ》しいことを家のものに話して聞かせなかった。
 南向の障子に光線《あかり》をうけた部屋は、家内や子供の居るところである。末の子供はお繁《しげ》と言って、これは私の母の名をつけたのだが、その誕生を済ましたばかりの娘が、炬燵《こたつ》へ寄せて、寝かしてあった。暦や錦絵《にしきえ》を貼《はり》付けた古壁の側には、六歳《むっつ》に成るお房と、四歳《よっつ》に成るお菊とが、お手玉の音をさ
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