君からは、早速便りがあって、一緒に心配した甲斐《かい》が有ったと言って、自分のことのように悦んでくれた。骨休めに、遊びに来い、こうも言って寄《よこ》した。私も何処か静かなところでこの疲労に耽《ふけ》りたい、と思った。世帯持のかなしさには、容易に家を飛出すことも出来なかったのである。急に私の家では客が増えた。訪ねて来る友達も多かった。
「母さん、犬殺しよ」
 こうお菊は母の傍へ来て言った。近所の「叔父さん」達が総掛りで何故庭の内を馳《か》け廻るか、彼方是方《あちこち》から飛んで来た犬が何故|吠《ほ》え立てるか、それを知らせに来るほどお菊も物が解って来た。
 お房やお菊はにわかに大きくなった。姉は前髪をとってくれと言うように成ったし、妹は前の年まで歌えなかった唱歌を最早《もう》自由に歌えるように成った。しかし、黒の発達とは比較に成らない。黒が近所へ捨てられた時分は、痩《や》せた、ひょろ長い小犬であったが、一年経つか経たないに、最早一ッぱしの女犬であった――乳房は長く垂下っていた。
 黒も逃げおおせた。犬殺しが手を振って、空車を引いて行った翌々日あたりから、復た私の家の床下では、毎晩この犬のゴソゴソ寝に来る音を聞くように成った。
 私の仕事が世に出る頃、種夫は新宿の医者に掛かった。この大久保で生れた児はとかく弱かった。ある日、家内が種夫を負《おぶ》って、薬を貰いに出掛けようとすると、それをお菊が、見送ると言いながら、植木屋の横手にある小径を通って、畑の方までも随いて行った。
「彼処《あそこ》まで送って上げましょう」
 とお菊は向《むこう》に光る新しい家屋を指して見せて、やがて母と一緒に畑の尽きたところへ出た。新開地らしい道路がそこにあった。
「菊ちゃんここから独りで帰れるの?」
 と母が立留って言った。
 お菊は独りで帰れると言って、桐の若木がところどころに立っている畑の間を帰りかけた。
「母さん」
 こうお菊は振向いて呼んだ。そして母と顔を見合せて微笑《ほほえ》んだ。母は乳呑児を負《おぶ》ったまま佇立《たたず》んでいた。お菊は復た麦だの薩摩芋《さつまいも》だのの作ってある平坦《たいら》な耕地の間を帰ったが、二度も三度も振向いて見た。
「母さん」
 この呼声が通じなくなった頃、お菊はサッサと家の方へ戻って来た。翌日も復たお菊が同じように後を追って行くので、家内も可愛そうに
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