ちゃんも毎日勉強してる」
 こうお倉は答えながら、娘の方へ行って、帯を締る手伝いをしたり、台所の方まで見廻りに行ったりした。
「叔父さん、リボンを見ておくんなんしょ」とお延が三吉の傍へ来た。
「私のも、似合いまして?」とお俊も来て、うしろむきに身を斜にして見せた。
 三吉は約束の金を嫂の前に置いた。お倉はそれを受取って、帯の間へ仕舞いながら、宗蔵の世話料をも頼むということや、正太がちょいちょい遊ぶということや、それから自分の夫が今度こそは好く行《や》って貰わなければ成らないということなどを話し込んだ。
 娘達は最早花火の音が聞えるという眼付をした。そこまでお倉を送って行こう、と催促した。
「母親さんは煙草を忘れて来た。一寸叔父さんに一服頂いて」
 お倉は弟が出した巻煙草に火を点《つ》けて、橋本の姉もどうしているかとか、大番頭の嘉助も死んだそうだとか、豊世を早く呼寄せるようにしなければ、正太の為《ため》にも成らないとか、それからそれへと話した。
「母親さん、早く行きましょうよ」とお俊はジレッタそうに。
「アア、今行く」と言って、お倉は弟の方を見て、「今度という今度は、それでも吾夫《やど》も懲《こ》りましたよ。私がツケツケ言うもんですからネ、『お前はイケナい奴《やつ》に成った、今まではもっと優《やさ》しい奴だと思っていた』なんて、吾夫がそう言って笑うんですよ……でも、貴方、今までのような大きな量見でいられると、失敗するのは眼に見えています。どの位私達が苦労をしたか分りませんからネ――真実《ほんと》に、三吉さんなぞは堅くて好い」
 三吉は額へ手を当てた。
 間もなくお倉は、種々と娘の世話を焼きながら、連立って出て行った。
 両国橋辺の混雑を思わせるような夕方が来た。三吉は燈火《あかり》も点けずに、薄暗い部屋の内に震えながら坐っていた。何となく可恐《おそろ》しいところへ引摺込《ひきずりこ》まれて行くような、自分の位置を考えた。今のうちに踏留《ふみとど》まらなければ成らない、と思った。しばらく忘れていた妻のことも彼の胸に浮んだ。次第に家の内は暗く成った。遠く花火の上る音がした。


「残暑きびしく候《そうろう》ところ、御地皆々さまには御機嫌《ごきげん》よく御暮し遊ばされ候由、目出度《めでたく》ぞんじあげまいらせ候。ばば死去の節は、早速雪子|御遣《おつか》わし下され、ありがたく存じ候。御蔭さまにて法事も無事に相済み、その節は多勢の客などいたし申し候。それもこれも亡《な》き親の御蔭と存じまいらせ候。さて雪子あまり長く引留め申し、おん許様《もとさま》には何角《なにかと》御不自由のことと御察し申しあげ候。俊子様、延子様にも御苦労相掛け、まことに御気の毒とは存じ候えども、何分にも斯《こ》のお暑さ、それに種夫さん同道とありては帰りの旅も案じられ候につき、今すこしく冷《すず》しく相成り候まで当地に逗留《とうりゅう》いたさせたく、私より御願い申上げ※[#「※」は「まいらせそろ」の略記号、58−11]《まいらせそろ》。何卒《なにとぞ》々々|悪《あ》しからず御|思召《おぼしめし》下《くだ》されたく候――」
 三吉が名倉の母から手紙を受取った頃は、何となく空気も湿って秋めいて来た。お俊は叔父の側へ来て、余計に忸々《なれなれ》しく言葉を掛けた。
「叔父さん、今|何事《なんに》も用が有りませんが、肩が凝るなら、按摩《あんま》さんでもして進《あ》げましょうか」
「沢山」
「すこし白髪《しらが》を取って進げましょうネ」
「沢山」
「叔父さんは今日はどうかなすって?」
「どうもしない――叔父さんを関わずに置いておくれ――お前達はお前達の為《す》ることを為《し》ておくれ――」
 例《いつ》になく厭《いと》い避けるような調子で言って、叔父が机に対《むか》っていたので、お俊はまた何か機嫌を損《そこ》ねたかと思った。手持不沙汰《てもちぶさた》に、勝手の方へ引返して行った。
「お俊姉様――兄様が御出《おいで》たぞなし」
 とお延が呼んだ。
 直樹が来た。相変らず温厚で、勤勉なのは、この少壮《としわか》な会社員だ。シッカリとした老祖母《おばあさん》が附いているだけに、親譲りの夏羽織などを着て、一寸訪ねて来るにも服装《みなり》を崩《くず》さなかった。三吉のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいるこの青年は年寄にも子供にも好かれた。
 叔父は娘達を直樹と遊ばせようとしていた。こうして郊外に住む三吉は、自分で直樹の相手に成って、この弟のように思う青年の口から、下町の変遷を聞こうと思うばかりでは無かった。彼は二人の姪を直樹の傍へ呼んだ。黒い土蔵の反射、紺の暖簾《のれん》の香《におい》――そういうものの漂う町々の空気がいかに改まりつつあるか、高い甍《いらか》を並べた商家の繁昌《はんじょう》がいかに昔の夢と変りつつあるか、曾《かつ》て三吉が直樹の家に書生をしている時分には、名高い大店《おおだな》の御隠居と唄われて、一代の栄華を極《きわ》め尽したような婦人も、いかに寄る年波と共に、下町の空気の中へ沈みつつあるか――こういう話を娘達にも聞かせた。
「俊、大屋さんの庭の方へ、直樹さんを御案内したら可《よ》かろう」
 と叔父に言われて、お俊は花の絶えない盆栽|棚《だな》の方へ、植木好な直樹を誘った。お延も一緒に随《つ》いて行った。
 若々しい笑声が庭の樹木の間から起った。三吉は縁側に出て聞いた。無垢《むく》な心で直樹や娘達の遊んでいる方を、楽しそうに眺めた。彼は、自分の羞恥《はじ》と悲哀《かなしみ》とを忘れようとしていた。
 やがて娘達は、庭の鳳仙花《ほうせんか》を摘《と》って、縁側のところへ戻って来た。白いハンケチをひろげて、花や葉の液を染めて遊んだ。鳳仙花は水分が多くて成功しなかった。直樹は軒の釣荵《つりしのぶ》の葉を摘って与えた。お俊は鋏《はさみ》の尻でトントン叩《たた》いた。お延の新しいハンケチの上には、荵の葉の形が鮮明《あざやか》に印《いん》された。
 暮れてから直樹は帰って行った。三吉は二人の姪に吩咐《いいつ》けて、新宿近くまで送らせた。


「俊は?」
 ある日の夕方、三吉は台所の方へ行って尋ねた。お延は茄子《なす》の皮を剥《む》いていた。
「姉様かなし、未だ帰って来ないぞなし」とお延は流許《ながしもと》に腰掛けながら答えた。
 一寸お俊は自分の家まで行って来ると言って、出た。帰りが遅かった。
「何とかお前に云ったかい」と叔父が心配そうに聞いた。
 お延は首を振って、復《ま》た庖丁《ほうちょう》を執《と》り上げた。茄子の皮は爼板《まないた》の上へ落ちた。
 待っても待ってもお俊は帰らなかった。夕飯が済んで、燈火《あかり》が点《つ》いても帰らなかった。八時、九時に成っても、未だ帰らなかった。
「必《きっ》と今夜は泊って来る積りだ」
 と言って見て、三吉は表の門を閉めに行った。掛金《かけがね》だけは掛けずに置いた。十時過ぎまで待った。到頭お俊は帰らなかった。
 次第に三吉は恐怖《おそれ》を抱《いだ》くように成った。いつもお俊が風呂敷包の置いてあるところへ行ってみると、着物だの、書籍《ほん》だのは、そのままに成っているらしい。三吉はすこし安心した。自分の部屋へ戻った。
「俊は最早帰って来ないんじゃないか」
 夜が更《ふ》けるに随《したが》って、こんなことまで考えるように成った。
 壁には、お房の引延した写真が額にして掛けてある。洋燈《ランプ》の光がその玻璃《ガラス》に映った、三吉は火の影を熟《じっ》と視《み》つめて、何をお俊が母親に語りつつあるか、と想像してみた。近づいて見れば、叔父の三吉も、従兄弟《いとこ》の正太とそう大した変りが無い……低い鋭い声で、こう語り聞かせているだろうか。それは唯《ただ》考えてみたばかりでも、暗い、遣瀬《やるせ》ない心を三吉に起させた。
「俊はまた、何を間違えたんだ。俺はそんな積りじゃ無いんだ」
 臆病《おくびょう》な三吉は、こうすべてを串談《じょうだん》のようにして、笑おうと試みた。「叔父さん、叔父さん」と頼みにして来て、足の裏を踏んでくれるとか、耳の垢《あか》を取ってくれるとか、その心易《こころやす》だてを彼はどうすることも出来なかったのである。「結婚しない前は、俺もこんなことは無かった」こう嘆息して、三吉は寝床に就《つ》いた。
 翌朝《よくあさ》、お俊は帰って来た。彼女は別に変った様子も見えなかった。
「どうしたい」
 と叔父はお延の居るところで聞いた。彼は心の中で、よく帰って来てくれたと思った。
「なんだか急に父親《おとっ》さんや母親《おっか》さんの顔が見たく成ったもんですから……突然《だしぬけ》に家へ帰ったら、皆な驚いちゃって……」
 こう答えるお俊の手を、お延は娘らしく握った。お俊は皆なに心配させて気の毒だったという眼付をした。
 漸く三吉も力を得た。日頃義理ある叔父と思えばこそ、こうして働きに来てくれると、お俊の心をあわれにも思った。
 その日から、三吉はなるべく姪を避けようとした。避けようとすればするほど、余計に巻込まれ、蹂躙《ふみにじ》られて行くような気もした。彼は最早、苦痛なしに姪の眼を見ることが出来なかった。どうかすると、若い女の髪が蒸されるとも、身体《からだ》が燃えるともつかないような、今まで気のつかなかった、極《ご》く極く幽《かす》かな臭気《におい》が、彼の鼻の先へ匂って来る。それを嗅ぐと、我知らず罪もないものの方へ引寄せられるような心地がした。この勢で押進んで行ったら、自分は畢竟《つまり》どうなる……と彼は思って見た。
「俺は、もう逃げるより他に仕方が無い」
 到頭、三吉はこんな狂人《きちがい》じみた声を出すように成った。


 二人の前垂を持った商人《あきんど》らしい男が、威勢よく格子戸を開けて入って来た。一人は正太だ。今一人は正太が連れた来た榊《さかき》という客だ。
「今日《こんにち》は」
 と正太はお俊やお延に挨拶して置いて、連《つれ》と一緒に叔父の部屋へ通った。
 お俊は茶戸棚の前に居た。客の方へ煙草盆を運んで行った従姉妹は、やがて彼女の側へ来た。
「延ちゃん、貴方《あなた》持って行って下さいな――私が入れますからネ」
 と言って、お俊は茶を入れた。
 客の榊というは、三島の方にある大きな醤油屋《しょうゆや》の若主人であった。不図《ふと》したことから三吉は懇意に成って、この人の家へ行って泊ったことも有った。十年も前の話。榊なら、それから忘れずにいる旧《ふる》い相識《しりあい》の間柄である。唯、正太と一緒に来たのが、不思議に三吉には思えた。そればかりではない、醤油蔵の白壁が幾つも並んで日に光る程の大きな家の若主人が、東京に出て仮に水菓子屋を始めているとは。加《おまけ》に、若い細君が水菓子を売ると聞いた時は、榊が戯れて言うとしか三吉には思われなかった。
「現に、私が買いに行きました」と正太が言出した。「私もネ、しばらく気分が悪くて、伏枕《ふせ》っていましたから、何か水気のある物を食べたいと思って買わせに遣《や》るうちに……どうも話の様子では、普通《ただ》の水菓子を売る家の内儀《おかみ》さんでは無い。聞いてみると、御名前が榊さんだ。小泉の叔父の話に、よく榊さんということを聞くが……もしや……と思って、私が自分で買いに行ってみました。果して叔父さんの御馴染《おなじみ》の方だ。それから最早こんなに御懇意にするように成っちゃったんです」
「橋本君とはスッカリお話が合って了って」と言って、榊は精悍《せいかん》な眼付をして、「先生――何処でどういう人に逢うか、全く解りませんネ」
 榊の「先生」は口癖である。
 正太は時々お俊の方を見た。「叔父さん、種々《いろいろ》御心配下さいましたが、裏の叔父さんから頼んで頂いた方はウマく行きませんでした。そのかわり、他の店に口がありそうです。実は榊君も私と同じように兜町を狙《ねら》っているんです」
 その日の正太は元気で、夏羽織なぞも新しい瀟洒《さっぱり》としたものを着ていた。「今にウンと一つ働
前へ 次へ
全33ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング