ある店を勤めていた。三吉は一ぱい物の散乱《ちらか》してある縁側のところへ行って、この阿爺《おとっ》さんとも言いたい年配の人の前に立った。
「アアそうですか。宜《よろ》しい。承知しました」と女教師の旦那は、心|易《やす》い調子で、三吉から種々《いろいろ》聞取った後で言った。「橋本さんなら、私も御見掛申して知っています。御年齢《おとし》は何歳《いくつ》位かナ」
「私より三つ年少《した》です」
「むむ、未だ御若い。これから働き盛りというところだ。御気質はどんな方ですか――そこも伺って置きたい」
「そうですナア。ああして今では浪人していますが、一体|華美《はで》なことの好きな方です」
「それでなくッちゃ不可《いけない》――相場師にでも成ろうという者は、人間が派手でなくちゃ駄目です。では、私の許《ところ》まで簡単な履歴書をよこして下さい。宜しい。一つ心当りを問合せてみましょう」
女教師の旦那は引受けてくれた。
甥のことを頼んで置いて、自分の家へ引返してから、三吉は不取敢《とりあえず》正太へ宛《あ》てて書いた。その時は姪のお延と二人ぎりであった。
「叔母さん達も、最早|余程《よっぽど》行ったわなアし」とお延は、叔父の傍へ来て、旅の人達の噂をした。
「こんな機会でもなければ、叔母さんだって置いて行かれるもんじゃない――今度出掛けたのは、叔母さんの為にも好い」
こう三吉は姪に言い聞かせた。彼は、自分でも、何卒《どうか》して子を失った悲哀《かなしみ》を忘れたいと思った。
二
諸方の学校が夏休に成る頃、お俊は叔父の家を指して急いで来た。妹のお鶴も姉に随《つ》いて来た。叔父が家の向側には、農家の垣根《かきね》のところに、高く枝を垂れた百日紅《さるすべり》の樹があった。熱い、紅《あか》い、寂しい花は往来の方へ向って咲いていた。
お俊は妹と一緒に格子戸を開けて入った。
「あら、お俊姉さま――」
とお延は飛立つように喜んで迎えた。お俊|姉妹《きょうだい》と聞いて、三吉も奥の方から出て来た。
「叔父さん。もっと早く御手伝いに伺う筈《はず》でしたが、つい学校の方がいそがしかったもんですから――」とお俊が言った。「延ちゃん一人で、さぞ御困りでしたろう」
「真実《ほんと》に、鶴《つう》ちゃんもよく来て下すった」とお延は嬉しそうに。
「今日は一緒に連れて参りました、学校が御休だもんですから」
「へえ、鶴ちゃんの方は未だ有るのかい」と三吉が聞いた。
「この娘《こ》の学校は御休が短いんです……あの、吾家《うち》の阿父《おとっ》さんからも叔父さんに宜しく……」
「お俊姉さまが来て下すったんで、真実《ほんと》に私は嬉しい」とお延はそれを繰返し言った。
長い長い留守居の後で、お俊姉妹は漸《ようや》く父の実と一緒に成れたのである。この二人の娘は叔父達の力と、母お倉《くら》の遣繰《やりくり》とで、僅《わず》かに保護されて来たようなものであった。三吉がはじめて家を持つ時分は、まだお俊は小学校を卒業したばかりの年頃であった。それがこうして手伝いなぞに来るように成った。お俊は幾年振かで叔父の側に一夏を送りに来た。
「鶴ちゃん、お裏の方へ行って見ていらっしゃい」とお俊が言った。
「鶴ちゃんも大きく成ったネ」
「あんなに着物が短く成っちゃって――もうズンズン成長《しとな》るんですもの」
お鶴はキマリ悪そうにして、笑いながら庭の方へ下りて行った。
「俊、お前のとこの阿父《おとっ》さんは何してるかい」
「まだ何事《なんに》もしていません……でも、朝なぞは、それは早いんですよ。今まで家のものにサンザン苦労させたから、今度は乃公《おれ》が勤めるんだなんて、阿父さんが暗いうちから起きてお釜《かま》の下を焚付《たきつ》けて下さるんです……習慣に成っちゃって、どうしても寝ていられないんですッて……阿母《おっか》さんが起出す時分には、御味噌汁《おみおつけ》までちゃんと出来てます……」
「それを思うと気の毒でもあるナ」
「阿母さん一人の時分には、家の内だってそう関《かま》わなかったんですけれど、阿父さんが帰っていらしッたら、何時の間にか綺麗《きれい》に片付いちまいました――妙なものねえ」
庭の方で笑い叫ぶ声がした。お鶴は滑《すべ》って転《ころ》んだ。お延は駈出《かけだ》して行った。お俊も笑いながら、妹の着物に附いた泥を落してやりに行った。
その晩、三吉の家では、めずらしく賑《にぎや》かな唱歌が起った。娘達は楽しい夏の夜を送る為に集った。暗い庭の方へ向いた部屋には、叔父が冷《すず》しい夜風の吹入るところを選んで、独《ひと》り横に成っていた。叔父は別に燈火《あかり》も要《い》らないと言うので、三人の姪《めい》の居るところだけ明るい。一つにして隅《すみ》の方に置いた洋燈《ランプ》の光は、お鶴が白い単衣《ひとえ》だの、お俊が薄紅い帯だのに映った。
「鶴ちゃん、叔父さんに遊戯をしてお見せなさいよ」とお俊がすすめた。
「何にしましょう……」とお鶴は考えて、「もしもし亀よにしましょうか」
「浦島が好いわ」
旧《ふる》い小泉の家――その頽廃《たいはい》と零落との中から、若草のように成長した娘達は、叔父に聞かせようとして一緒に唱歌を歌い出した。お鶴は編み下げた髪のリボンを直して、短い着物の皺《しわ》を延しながら起立《たちあが》った。姉や従姉妹《いとこ》が歌う種々な唱歌につれて、この娘は部屋の内を踊って遊んだ。
三吉は縁側の方から眺《なが》めながら、
「ウマい、ウマい――何か、御褒美《ごほうび》を出さんけりゃ成るまい」
「鶴ちゃん、もう沢山よ」
と姉に言われても、妹は遊戯に夢中に成った。一つや二つでは聞入れなかった。
一晩泊ってお鶴は帰って行った。翌日から勝手の方では、若々しい笑声が絶えなかった。四五日降ったり晴れたりした後で、烈《はげ》しい朝日が射して来た。暑く成らないうちに、と思って、お俊は井戸端へ盥《たらい》を持出した。お延も手桶《ておけ》を提《さ》げて、竹の垣を廻った。長い袖《そで》をまくって、洗濯物を始めたお俊の側には、お延が立って井戸の水を汲《く》んだ。
「ああ、今日は朝から身体《からだ》が菎蒻《こんにゃく》のように成っちゃった。牛蒡《ごぼう》のようにピンとして歩けん――」
こんなことをお延が言って、年長《としうえ》の従姉妹を笑わせた。お俊は釣瓶《つるべ》の水を分けて貰って復《ま》たジャブジャブ洗った。
庭には物を乾《ほ》す余地が可成《かなり》広くあった。やがてお俊は洗濯した着物を長い竿《さお》に通して、それを高く揚げた。
「うれしい!」
思わず彼女は叫んだ。お延は立って眺めていた。
「学校の先生が、夏休の間に考えていらッしゃいという問題を、ひょいと思出してよ」
こうお俊が話し聞かせて、お延と一緒に勝手口から上った。二人は意味もなく起って来る微笑《えみ》を交換《とりかわ》した。互に、濡《ぬ》れた、あらわな手を拭《ふ》いた。
空は青い海のように光った。イヤというほど照りつけて来た日光は、白い干物に反射して、家の内に満ち溢《あふ》れた。午後から、娘達は思い思いの場所を選んで足を投出したり、柱に倚凭《よりかか》ったりした。三吉は、南の窓に近く、ハンモックを釣った。そこへ蒸されるような体躯《からだ》を載せた。熱い地の息と、冷《すず》しい風とが妙に混り合って、窓を通して入って来る。単調な蝉《せみ》の歌は何時の間にか彼の耳を疲れさせた。
憂鬱《ゆううつ》な眼付をして、三吉が昼寝から覚《さ》めた時は、虻《あぶ》にでも刺されたらしい疼痛《いたみ》を覚えた。お俊は髪に塗る油を持って来て、それを叔父に勧めた。
「延ちゃん――まあ、来て御覧なさいよ」とお俊が笑いながら呼んだ。「三吉叔父さんはこんなに白髪《しらが》が生《は》えてよ」
お延は勝手の方から手を振ってやって来た。
「オイ、オイ」と三吉は自分の子供にでも戯《たわむ》れるように言った。「そうお前達のように馬鹿にしちゃ困るぜ……これでも叔父さんは金鵄《きんし》勲章の積りだ」
「あんな負惜みを言って」とお延は訳も無しに笑った。
「ねえ、延ちゃん、有れば仕方が無いわ」と言って、お俊は叔父の傍へ寄って、「叔父さん、ジッとしていらッしゃい――抜いて進《あ》げましょうネ。前の方はそんなでも無いけれど、鬢《びん》のところなぞは、一ぱい……こりゃ大変だ……容易に取尽せやしないわ」
お俊は叔父の髪に触れて、一本々々|択《え》り分けた。凋落《ちょうらく》を思わせるような、白い、光ったやつが、どうかすると黒い毛と一緒に成って抜けて来た。
「叔父さん、どうしてこんなに髪がこわれるんでしょう」
勝手の方から来たお俊は、叔父の傍へ寄って、親しげな調子で言った。この姪は三吉を頼りにするという風で、子が親に言うようなことまで話して聞かせようとした。
「どうして夏はこんなに――」
と復たお俊は言って、うしろむきに身を斜にして見せた。彼女は、乾きくずれた束髪の根を掴《つか》んで、それを叔父に動かして見せたりなぞした。
庭の洗濯物も乾いた。二人の姪は屋外《そと》に出て着物や襦袢《じゅばん》を取込みながら、互に唱歌を歌った。この半分夢中で合唱しているような、何となく生気のある、浮々とした声は、叔父の心を誘った。三吉は縁側のところに立って、乾いた着物を畳んでいる娘達の無心な動作を眺めた。そして、お雪や正太《しょうた》の細君なぞに比べると、もっとずっと嫩《わか》い芽が、最早《もう》彼の周囲《まわり》に頭を持ち上げて来たことを、めずらしく思った。
蘇生《いきかえ》るような空気が軒へ通って来た。夕方から三吉は姪を集めて、遠く生家《さと》の方に居るお雪の噂《うわさ》を始めた。表の方の農家でも往来へ涼台《すずみだい》を持出して、夏の夜風を楽しむらしかった。ジャン拳《けん》で負けて氷を買いに行ったお延は、やがて戻って来た。お俊はコップだの、砂糖の壺《つぼ》だのを運んだ。
「皆なに御馳走《ごちそう》するかナ」
と三吉は、赤い葡萄酒《ぶどうしゅ》の残りを捜出《さがしだ》して、それを砕いた氷にそそいだ。
お俊の娘らしい話は、手紙のことに移って行った。切手を故意に倒《さかさ》まに貼《は》るのは敵意をあらわすとか、すこし横に貼るのは恋を意味するとか、そんなことを言出す。敵意のあるものなら、手紙を遣取《やりとり》するのも少し変ではないか、こう叔父が混返《まぜかえ》したのが始まりで、お俊は負けずに言い争った。
「叔父さんなんか、そういうことはよく知っていらッしゃるくせに」
と軽く笑って、それからお俊は彼女が学校生活を叔父に語り始めた。三吉は時々、手にしたコップを夜の燈火《あかり》に透かして見ながら、「そうかナア」という眼付をして、耳を傾けていた。
「私は涅槃《ねはん》という言葉が大好よ」とお俊は冷そうに氷を噛《か》んで言った。
「あら、いやだ」とお延はコップの中を掻廻《かきまわ》して、「それじゃ、お俊姉さまのことを、これから涅槃と……」
「涅槃ッて、何だか音《おん》からして好いわ」
こんなことからお俊の話は解けて、よく学校の裏手にある墓地へ遊びに行くことを言出した。そこの古い石に腰掛け、落葉の焼けるにおいを嗅《か》ぎながら、読書するのが彼女の楽みであると言出した。
「学校の先生が――小泉さん、貴方《あなた》は誰にも悪《にく》まれないが、そのかわり人に愛される性質《たち》で反《かえ》って不可《いけない》――貴方は余程シッカリしていないといけません、その為に苦労することが有るからッて……」
こう言いかけて、お俊は癖のように着物の襟《えり》を掻合せて、
「叔父さんやなんかのことは、自分の身に近い人ですから解りませんがネ……私の知ってる人で、一人も心から敬服するという人は無いのよ。あの人はエライ人だとか、何だとか言われる人でも、私は直にその人の裏面《うら》を見ちゃってよ――妙に、私には解るの――解るように成って来るの」
お延は叔父と従姉妹の顔を見
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