は、病院に居る間、子供に買ってくれた物を取出した。
「それも入れて遣れ」
 一切が葬られた。やがてお房は二人の妹の墓の方へ送られた。お雪は門の外へ出て、小さな棺の分らなくなるまでも見送った。「最早お房は居ない」こう思って、若葉の延びた金目垣《かなめがき》の側に立った時は、母らしい涙が流れて来た。お雪は家の内へ入って、泣いた。


 山から持って来た三吉の仕事は意外な反響を世間に伝えた。彼の家では、急に客が殖《ふ》えた。訪ねて来る友達も多かった。しかし、主人《あるじ》は居るか居ないか分らないほどヒッソリとして、どうかすると表の門まで閉めたままにして置くことも有った。
 三吉は最早、子供なぞはどうでも可いと言うことの出来ない人であった。多くの困難を排しても進もうとした努力が、どうしてこんな悲哀《かなしみ》の種に成るだろう、と彼の眼が言うように見えた。「彼処《あすこ》に子供が三人居るんだ」――この思想《かんがえ》に導かれて、幾度《いくたび》か彼の足は小さな墓の方へ向いた。家から墓地へ通う平坦《たいら》な道路《みち》の両側には、すでに新緑も深かった。到る処の郊外の日あたりに、彼は自分の心によく似た憂鬱《ゆううつ》な色を見つけた。しかし彼は、寺の周囲《まわり》を彷徨《さまよ》って来るだけで、三つ並んだ小さな墓を見るに堪《た》えなかった。それを無理にも行こうとすれば、頭脳《あたま》がカッと逆上《のぼ》せて、急に倒れかかりそうな激しい眩暈《めまい》を感じた。いつでも寺の前まで行きかけては、途中から引返した。
「父さんは薄情だ。子供の墓へ御参りもしないで……」
 とお雪はよくそれを言った。
 寄ると触ると、家では子供の話が出た。何時の間にか三吉の心も、家のものの話の方へ行った。
 お雪は姪《めい》をつかまえて、夫の傍で種夫に乳を呑ませながら、
「繁ちゃんの亡くなった時は、まだ房ちゃんは何事《なんに》も知りませんでしたよ。でも、菊ちゃんの時には最早よく解っていましたッけ――あの時は皆な一緒に泣きましたもの」
「なアし」とお延も思出したように、「あれを思うと、房ちゃんが眼に見えるようだ」
「真実《ほんと》に、繁ちゃんの時は皆な夢中でしたよ――私が、『御覧なさいな、繁ちゃんはノノサンに成ったんじゃ有りませんか』と言えば、房ちゃんと菊ちゃんとも平気な顔して、『死んじゃったのよ、死んじゃったのよ』と言いながら、棺の周囲《まわり》を踊って歩きましたよ。そして、死んだ子供の側へ行って、噴飯《ふきだ》すんですもの」
「まあ」
「しかし、二人とも達者でいる時分には、よく繁ちゃんの御墓へ連れて行って、桑の実を摘《と》って遣《や》りましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと――繁ちゃん桑の実|頂戴《ちょうだい》ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あの御墓の後方《うしろ》にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘って下さいッて言っちゃあ……」
「オイ、何か他の話にしようじゃないか」
 と三吉が遮《さえぎ》った。子供の話が出ると、必《きっ》と終《しまい》には三吉がこう言出した。
「種ちゃん」お延はアヤすように呼んだ。
「この子は又、どうしてこんなに弱いんでしょう」とお雪は種夫の顔を熟視《みまも》りながら言った。
 蹂躙《ふみにじ》られるような目付をして、三吉も種夫の方を見た。その時、夫婦は顔を見合せた。「ひょッとかすると、この児も?」この無言の恐怖が互の胸に伝わった。三人の娘達を見た目で弱い種夫を眺めると、十分な発育さえも気遣《きづか》われた。
 急に日が強く映《あた》って来た。すこし湿った庭土は、熱い、黄ばんだ色を帯びた。木犀《もくせい》の葉影もハッキリと地にあった。三吉は帽子を手にして、そこいらを散歩して来ると言って、出て行った。
「そう言えば、繁ちゃんの肉体《からだ》は最早腐って了ったんでしょうねえ」
 とお雪は姪に言って、歎息《たんそく》した。彼女は乳呑児を抱きながら縁側のところへ出て眺めた。日光は輝いたり、薄れたりするような日であった。お延は庭へ下りた。菫《すみれ》の唱歌を歌い出した。それはお房やお菊が未だピンピンしている時分に、二人して家の周囲《まわり》をよく歌って歩いたものである。お雪は、死んだ娘の声を探すような眼付して、一緒に低い声で歌って見た。勝手口の方でも調子を合せる声が起った。
 夕方に三吉はボンヤリ帰って来た。
「何だか俺は気でも狂《ちが》いそうに成って来た。一寸|磯辺《いそべ》まで行って来る」
 こう家のものに話した。その晩、急に彼は旅行を思い立った。そして、そこそこに仕度を始めた。山にある友人の牧野からは休みに来い来いと言って寄《よこ》すが、その時は唯《ただ》一人で、世間を忘れるようなところへ行きたかった。翌朝《よくあさ》早く、彼は磯辺の温泉宿を指して発《た》って行った。


「あれ、叔父さんは最早《もう》帰って御出《おいで》たそうな」
 とお延は入口の庭に立って言った。
 お雪が生家《さと》の方で老祖母《おばあさん》の死去したという報知《しらせ》は、旅にある三吉を驚かした。二三日しか彼は磯辺に逗留《とうりゅう》しなかった。電報を受取ると直ぐ急いで家の方へ引返して来た。
「種ちゃん、父さんの御帰りだよ」とお雪も乳呑児を抱きながら、夫を迎えた。
「よく、こんなに早く帰られましたネ、皆な貴方のことを心配しましたよ」
「道理で、森彦さんからも見舞の電報を寄した。どうも変だと思った――俺は又、お前の方を案じていた」
 ホッと溜息《ためいき》を吐《つ》いて三吉は老祖母の話に移った。
 この老祖母の死は、今更のように名倉《なくら》の大きな家族のことを思わせた。別に竈《かまど》を持った孫娘だけでも二人ある。まだ修業中の孫から、多勢の曾孫《ひいまご》を加えたら、余程の人数に成る。お雪ばかりは、その中でも、遠く嫁《かたづ》いて来た方であるが、この葬式は是非とも見送りたかった。三吉は又、種夫に下婢《おんな》を附けて一緒に遣るつもりで帰って来た。
「さあ、今度はお前が出掛ける番だ」と三吉が言った。「でも、俺の仕事が済んだ後で好かった……買う物があったら買ったら可《よ》かろう。何か土産《みやげ》も用意して行かんけりゃ成るまい」
「土産なんか要《い》りません。一々持って行った日にゃ大変です」
 お雪は妹だの、姪だのを数えてみた。
 久し振で生家《さと》へ帰る妻の為にと思って、三吉は名倉の娘達の許《もと》へ何か荷物に成らない物を見立てようとした。旅費を用意したり、買物したりして、夫が町から戻って来る頃は、妻は旅仕度に忙しかった。
 あわただしい中にも、種々なことがお雪の胸の中を往来した。長い年月の間、夫と艱難《かんなん》を共にした後で、彼女は自分の生家を見に行く人である。今まで殆んど出なかった家を出、遠く夫を離れて、両親や姉妹《きょうだい》やそれから友達などと一緒に成りに行く人である。光る帆、動揺する波、鴎《かもめ》の鳴声……可懐《なつか》しいものは故郷の海ばかりでは無かった。曾《かつ》て、彼女が心を許した勉《つとむ》――その人を自分の妹の夫としても見に行く人である。
「叔母さん、御郷里《おくに》へ御帰り?……御取込のところですネ」
 こう言って、翌朝《よくあさ》正太が訪ねて来た頃は、手荷物だの、子供の着物だのが、部屋中ごちゃごちゃ散乱《とりちら》してあった。
「正太さん、御免なさいまし」とお雪は帯を締めながら挨拶《あいさつ》した。
「どれ、子供をここへ連れて来て見ナ」
 と三吉に言われて、下婢はそこに寝かしてあった種夫を抱いて来た。
「余程気をつけて連れて行かないと、不可《いけない》ぜ」
「よくああして温順《おとな》しく寝ていたものだ」と正太も言った。
「まだ、君、毎日|浣腸《かんちょう》してますよ。そうしなけりゃ通じが無い……玩具《おもちゃ》でも宛行《あてが》って置こうものなら、半日でも黙って寝ています。房ちゃん達から見ると、ずっとこの児は弱い」
「これで御郷里《おくに》の方へでも連れていらしッたら、また壮健《じょうぶ》に成るかも知れません」
「まあ、一夏も向《むこう》に居て来るんです」
「真実《ほんと》に叔母さんも御苦労様――女の旅は容易じゃ有りませんネ」
 お雪は二人の話を聞きながら、白足袋《しろたび》を穿《は》いた。「私が留守に成ったら、父さんも困るでしょうから、お俊ちゃんにでも来ていて頂くつもりです」と彼女は言った。そのうちに仕度が出来た。お雪は夫や正太と一緒に旅立の茶を飲んだ。
「種ちゃんにも、一ぱい飲まして」
 とお雪は懐《ふところ》をひろげて、暗い色の乳首を子供の口へ宛行《あてが》った。お延は車宿を指して走って行った。


 甥《おい》に留守を頼んで置いて、一寸三吉は新宿の停車場《ステーション》まで妻子を送りに行った。帰って見ると、正太は用事ありげに叔父を待受けていた。
「正太さん、君はまだ朝飯前じゃなかったんですか。僕は言うのを忘れた」
「いえ、早く済まして来ました」
「めずらしいネ」
「私のような寝坊ですけれど、めずらしく早く起きました。下宿の膳《ぜん》に対《むか》って、つくづく今朝は考えました……なにしろ一年の余にも成るのに、未だこうしてブラブラしているんですからネ……」
 正太は激昂《げっこう》するように笑った。暗い前途にいくらかの明りを見つけたと言出した。その時彼は叔父の思惑《おもわく》を憚《はばか》るという風であったが、やや躊躇《ちゅうちょ》した後で、自分の行くべき道は兜町《かぶとちょう》の方角より外に無い――尤《もっと》も、これは再三再四熟考した上のことで、いよいよ相場師として立とうと決心した、と言出した。
 何か冒険談でも聞くように、しばらく三吉は正太の話に耳を傾けていたが、やがて甥の顔を眺めて、
「しかし君、――実さんにせよ、森彦さんにせよ、皆な儲《もう》けようという人達でしょう。そういう人達が揃《そろ》っていても、容易に儲からない世の中じゃ有りませんか。兜町へ入ったからッて、必ず儲かるとは限りませんぜ」
「実叔父さん達と、私とは、時代が違います」と正太は力を入れた。
「まあ僕のような門外漢から見ると、商売なり何なりに重きを置いてサ、それから儲けて出るというのが、実際の順序かと思うネ。名倉の阿爺《おやじ》を見給え。あの人は事業をした。そして、儲けた。どうも君等のは儲けることばかり先に考えて掛ってるようだ……だから相場なんて方に思想《かんがえ》が向いて行くんじゃ有りませんか」
「そこです。私は相場を事業として行《や》ります。一寸手を出してみて、直ぐまた止《や》めて了うなんて、そんな行き方をする位なら、初から私は関係しません……先《ま》ず店員にでも成って、それから出発するんです……私は兜町に骨を埋《うず》める覚悟です……」
「それほどの決心があるなら、君の思うように行《や》って見るサ。僕は君、何でも行《や》りたか行れという流儀だ」
「そう叔父さんに言って頂くと、私も難有《ありがた》い――森彦叔父さんなぞは何と言うか知らないが……」
 森彦の方へ行けば森彦のように考え、三吉の許《ところ》へ来れば三吉のように考えるのが、正太の癖であった。丁度、この植木屋の地内に住む女教師の夫というは、兜町方面に明るい人である。で、正太は話を進めて叔父からその人に口を利《き》いて貰うように、こう頼んだ。
 何となく不安な空気を残して置いて、甥は帰って行った。「正太さんも本気で行《や》る積りかナア」と三吉は言ってみて、とにかく甥のために、頼めるだけのことは頼もうと思った。その日の午後、三吉は庭伝いに女教師の家の横を廻って、沢山盆栽|鉢《ばち》の置並べてあるところへ出た。植木屋の庭の一部は、やがて女教師の家の庭であった。子息《むすこ》の中学生は三脚椅子に腰掛けて、何かしきりと写生していた。
 女教師の旦那《だんな》というは、官吏生活もしたことの有るらしい人で、今では兜町に隠れて、手堅く
前へ 次へ
全33ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング