》学校を休ませてみるなんて言った――そんな勇気の無いこっちゃ、ダチカン」
思わず森彦は郷里《くに》の方の言葉を出した。そして、旧家の家長らしい威厳を帯びた調子で、博愛、忍耐、節倹などの人としての美徳であることを語り聞かせた。久しく森彦の傍に居なかったお延は、何となく父を憚《はばか》るという風で、唯黙って聞いていた。
「や、菓子をくれるのを忘れた」
と森彦は思付いたように笑って、袂の内から紙の包を取出した。やがて、家の内を眺め廻しながら、
「どうもここの家は空気の流通が好くない。此頃《こないだ》から俺はそう思っていた。それに、ここの叔父さんのようにああ煙草《たばこ》をポカポカ燻《ふか》したんじゃ……俺なぞは、毎晩休む時に、旅舎の二階を一度明けて、すっかり悪い空気を追出してから寝る。すこしでも煙草の煙が籠《こも》っていようものなら、もう俺は寝られんよ」
こうお延に話した。彼は娘から小刀を借りて、部屋々々の障子の上の部分をすこしずつ切り透《すか》した。
「延――それじゃ俺はこれで帰るがねえ」
「あれ、阿父さんは最早御帰りに成るかなし」
「今日は叔父さんも一寸帰って来るそうだし――そうすれば俺は居なくても済む。丁度好い都合だった。これからもう一軒寄って行くところが有る。復た泊りに来ます」
家の方を案じて、三吉は夕方に病院から戻った。留守中、訪ねて来てくれた人達のことを姪から聞取った。
「只今《ただいま》」
と三吉は縁側のところへ出て呼んだ。
「オヤ、小泉さん、お帰りで御座いましたか」
庭を隔てて対《むか》い合っている裏の家からは、女教師の答える声が聞えた。
女教師は自分の家の格子戸をガタガタ言わせて出た。井戸の側《わき》から、竹の垣を廻って、庭伝いに三吉の居る方へやって来た。中学へ通う位の子息《むすこ》のある年配で、ハッキリハッキリと丁寧に物なぞも言う人である。
「房子さんは奈何《いかが》でいらっしゃいますか。先日|一寸《ちょっと》御見舞に伺いました時も、大層御悪いような御様子でしたが――真実《ほんと》に、私は御気の毒で、房子さんの苦しむところを見ていられませんでしたよ」
こう女教師は庭に立って、何処か国訛《くになまり》のある調子で言った。その時三吉は、簡単にお房の病気の経過を話して、到底助かる見込は無いらしいと歎息した。お延も縁側に出て、二人の話に耳を傾けた。
「もし万一のことでも有りそうでしたら、病院から電報を打つ……医者がそう言ってくれるものですから、私もよく頼んで置いて、一寸|用達《ようたし》にやって参りました」と三吉は附添《つけた》した。
「まあ、貴方のところでは、どうしてこんなに御子さん達が……必《きっ》と御越に成る方角でも悪かったんでしょうッて、大屋さんの祖母《ばあ》さんがそう申しますんですよ。そんなことも御座いますまいけれど……でも、僅か一年ばかりの間に、皆さんが皆さん――どう考えましても私なぞには解りません」と言って、女教師は思いやるように、「あのまあ房子さんが、病院中へ響けるような声を御出しなすって、『母さん――母さん――』と呼んでいらッしゃいましたが、母さんの身に成ったらどんなで御座いましょう……そう申して、御噂《おうわさ》をしておりますんですよ」
「一週間、ああして呼び続けに呼んでいました―最早あの声も弱って来ました」と三吉は答えた。
女教師が帰って行く頃は、植木屋の草屋根と暗い松の葉との間を通して、遠く黄に輝く空が映った。三吉は庭に出た。子供のことを案じながら、あちこちと歩いてみた。
夕飯の後、三吉は姪に向って、
「延、叔父さんはこの一週間ばかり碌に眠らないんだからネ……今夜は叔父さんを休ませておくれ。お前も、頭脳《あたま》の具合が悪いようなら、早く御休み」
こう言って置いて、その晩は早く寝床に就《つ》いた。
何時《いつ》電報が掛って来るか知れないという心配は、容易に三吉を眠らせなかった。身体に附いて離れないような病院特別な匂いが、プーンと彼の鼻の先へ香《にお》って来た。その匂いは、何時の間にか、彼の心をお房の方へ連れて行った。電燈がある。寝台《ねだい》がある。子供の枕頭《まくらもと》へは黒い布《きれ》を掛けて、光の刺激を避けるようにしてある。その側には、妻が居る。附添の女が居る。種夫や下婢《おんな》も居る。白い制服を着た看護婦は病室を出たり入ったりしている。未だお房は、子供ながらに出せるだけの精力を出して、小さな頭脳《あたま》の内部《なか》が破壊《こわ》れ尽すまでは休《や》めないかのように叫んでいる――思い疲れているうちに、三吉は深いところへ陥入るように眠った。
翌日《あくるひ》は、午前に三吉が留守居をして、午後からお延が留守居をした。
「叔母さん達のように、ああして子供の側に附いていられると可《い》いけれど――叔父さんは、お前、お金の心配もしなけりゃ成らん」
こんなことを言って出て行った三吉は、やがて用達から戻って来て、復《ま》た部屋に倒れた。何時の間にか、彼は死んだ人のように成った。
「母さん――」
こういう呼声に気が付いて、三吉が我に返った頃は、遅かった。彼は夕飯後、しばらく姪と病院の方の噂をして、その晩も早く寝床に入ったが、自分で何時間ほど眠ったかということは知らなかった。次の部屋には、姪がよく寝入っている。身体を動かさずにいると、可恐《おそろ》しい子供の呼声が耳の底の方で聞える。「母さん、母さん、母さん――母さんちゃん――ちゃん――ちゃん――ちゃん」宛然《まるで》、気が狂《ちが》ったような声だ……それは三吉の耳について了《しま》って、何処に居ても頭脳《あたま》へ響けるように聞えた。
夢のように、門を叩《たた》く音がした。
「小泉さん、電報!」
むっくと三吉は跳起《はねお》きた。表の戸を開けて、受取って見ると、病院から打って寄《よこ》したもので、「ミヤクハゲシ、スグコイ」とある。お延を起す為に、三吉は姪の寝ている方へ行った。この娘は一度「ハイ」と返事をして、復た寝て了った。
「オイ、オイ、病院から電報が来たよ」
「あれ、真実《ほんと》かなし」とお延は田舎訛《いなかなまり》で言って、床の上に起直った。「私は夢でも見たかと思った」
「叔父さんは直に仕度をして出掛る。気の毒だが、お前、車屋まで行って来ておくれ」
と叔父に言われて、お延は眼を擦《こす》り擦り出て行った。
三吉が家の外に出て、車を待つ頃は、まだ電車は有るらしかった。稲荷祭《いなりまつり》の晩で、新宿の方の空は明るい。遠く犬の吠《ほ》える声も聞える。そのうちに車が来た。三吉は新宿まで乗って、それから電車で行くことにした。
「延、お前は独《ひと》りで大丈夫かネ」
と三吉は留守を頼んで置いて出掛けた。お延は戸を閉めて入った。冷い寝床へ潜《もぐ》り込んでからも、種々なことを小さな胸に想像してみた時は、この娘もぶるぶる震えた。叔父が新宿あたりへ行き着いたかと思われる頃には、ポツポツ板屋根の上へ雨の来る音がした。
復た家の内は寂寞《せきばく》に返った。
車が門の前で停《とま》った。正太はそれから飛降りて、閉めてあった扉《と》を押した。「延ちゃん、皆な帰って来ましたよ」正太が入口の格子戸を開けて呼んだ。それを聞きつけて、お延は周章《あわ》てて出た。丁度森彦も来合せていて、そこへ顔を顕《あら》わした。
「到頭房もいけなかったかい」
「ええ、今朝……払暁《あけがた》に息を引取ったそうです……皆な、今、そこへ来ます」
森彦と正太とは、こう言合って、互に顔を見合せた。
間もなく三台の車が停った。お雪は乳呑児《ちのみご》を抱いて二週間目で自分の家へ帰って来た。下婢《おんな》も荷物と一緒に車を降りた。つづいて、三吉が一番|年長《うえ》の兄の娘、お俊も、降りた。
三吉の車は一番後に成った。日の映《あた》った往来には、お房の遊友達が立留って、ささやき合ったり、眺《なが》めたりしていた。黒い幌《ほろ》を掛けて静かに引いて来た車は、その娘達の見ている前で停った。
「叔父さん、手伝いましょうか」
と正太が車の側へ寄った。
お房は茶色の肩掛に包まれたまま、父の手に抱かれて来た。グタリとした子供の死体を、三吉は車から抱下《だきおろ》して、門の内へ運んだ。
仏壇のある中の部屋の隅には、人々が集って、お房の為に床を用意した。そこへ冷くなった子供を寝かした。顔は白い布で掩《おお》うた。
「ホウ、こうして見ると、思いの外《ほか》大きなものだ……どうだネ、膝《ひざ》は曲げて遣《や》らなくても好かろうか」と森彦が注意した。
「子供のことですから、このままで棺に納まりましょう」と正太を眺めた。
「でも、すこし曲げて置いた方が好いかも知れません」
こう三吉は言ってみて、娘の膝を立てるようにさせた。氷のようなお房の足は最早自由に成らなかった。それを無理に折曲げた。お俊やお延は、水だの花だのを枕頭《まくらもと》へ運んだ。丁度、お雪が二番目の妹のお愛も、学校の寄宿舎から訪ねて来た。この娘は姉の傍へ寄って、一緒に成って泣いた。
午後には、裏の女教師が勝手口から上って、子供の死顔を見に来た。
「真実《ほんと》に、何とも申上げようが御座いません……小泉さんは、まだそれでも男だから宜《よ》う御座んすが、こちらの叔母さんが可哀そうです」と女教師は言った。
お房が病んだ熱は、腸から来たもので無くて、実際は脳膜炎の為であった。それをお雪は女教師に話し聞かせた。白痴児《はくちじ》として生き残るよりは、あるいはこの方が勝《まし》かも知れない、と人々は言合った。
黄色く日中に燃《とぼ》る蝋燭《ろうそく》の火を眺めながら、三吉は窓に近い壁のところに倚凭《よりかか》っていた。
「叔父さん、お疲れでしょう」と正太は三吉の前に立った。
「なにしろ、君、初《はな》の一週間は助けたい助けたいで夜も碌《ろく》に眠らないでしょう。後の一週間は、子供の側に居るのもこれかぎりか、なんと思って復た起きてる……終《しまい》には、半分眠りながら看護をしていましたよ。すこし身体を横にしようものなら、直にもう死んだように成って了って……」
「私なぞも、どうかすると豊世に子供でも有ったら、とそう思うことも有りますが、しかし叔父さんや叔母さんの苦むところを見ていますと、無い方が好いかとも思いますネ」
「正太さん、煙草を持ちませんか。有るなら一本くれ給えな」
正太は袂《たもと》を探った。三吉は甥がくれた巻煙草に火を点《つ》けて、それをウマそうに燻《ふか》してみた。葬式の準備やら、弔辞《くやみ》を言いに来る人が有るやらで、家の内は混雑《ごたごた》した。三吉は器械のように起《た》ったり坐ったりした。
葬式の日は、親類一同、小さな棺の周囲《まわり》に集った。三吉が往時《むかし》書生をしていた家の直樹も来た。この子息《むすこ》は疾《とっく》に中学を卒業して、最早|少壮《としわか》な会社員であった。
お俊も来た。
「叔父さん、今日は吾家《うち》の阿父《おとっ》さんも伺う筈《はず》なんですが……伺いませんからッて、私が名代《みょうだい》に参りました」とお俊は三吉に向って、父の実が謹慎中の身の上であることを、それとなく言った。
その日は、お愛も長い紫の袴《はかま》を着けて来た。こうして東京に居る近い親類を見渡したところ、実を除いての年長者は、さしあたり森彦だ。森彦は、若い人達の発達に驚くという風で、今では学校の高等科に居るお俊や、優美な服装をしたお愛などに、自分の娘を見比べた。
正太は花を買い集めて来た。眠るようなお房の顔の周囲《まわり》はその花で飾られた。「お雪、房ちゃんの玩具《おもちゃ》は一緒に入れて遣ろうじゃないか」と三吉が言えば、「そうです、有ると反《かえ》って思出して不可《いけない》」と正太も言って、毬《まり》だの巾着《きんちゃく》だのを棺の隅々《すみずみ》へ入れた。
「余程毛糸が気に入ったものと見えて、眼が見えなく成っても、未だ毛糸のことを言っていました」とお雪
前へ
次へ
全33ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング