《おやじ》の行衛《ゆくえ》も分りました」
こんなことを言出した。久しく居所《いどころ》さえも不明であった達雄のことを聞いて、三吉も身を起した。
「先日、Uさんが神戸の方から出て来まして、私に逢いたいということですから――」と言って、正太は声を低くして、「その時Uさんの話にも、阿父も彼方《あちら》で教員してるそうです。まあ食うだけのことには困らん……それにしても、あんなに家を滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にして出て行った位ですから、もうすこし阿父も何か為《す》るかと思いましたよ」
「あの若い芸者はどうしましたろう――達雄さんが身受をして連れて行ったという少婦《おんな》が有るじゃありませんか」
「あんなものは、最早|疾《とっく》にどうか成って了いましたあね」
「そうかナア」
「で、叔父さん、Uさんが言うには、考えて見れば橋本さんも御気の毒ですし、ああして唯|孤独《ひとり》で置いてもどうかと思うからして、せめて家族の人と手紙の遣取《やりとり》位はさせて進《あ》げたいものですッて」
「では、何かネ、君は父親《おとっ》さんと通信《たより》を始める積りかネ」と三吉が尋ねた。
「否《いいえ》」正太の眼は輝いた。「勿論《もちろん》――私が書くべき場合でもなし、阿父にしたところが書けもしなかろうと思います。そりゃあもう、阿父が店のものに対しては、面向《かおむけ》の出来ないようなことをして行きましたからネ。唯、母が可哀そうです……それを思うと、母だけには内証でも通信させて遣《や》りたい。Uさんが間に立ってくれるとも言いますから」
こういう甥の話は、三吉の心を木曾川《きそがわ》の音のする方へ連れて行った。旧《ふる》い橋本の家は、曾遊《そうゆう》の時のままで、未だ彼の眼にあった。
「変れば変るものさネ。君の家の姉さんのことも、豊世さんのことも、君のことも――何事《なんに》も達雄さんは知るまいが。ホラ、僕が君の家へ遊びに行った時分は、達雄さんも非常に勤勉な人で、君のことなぞを酷《ひど》く心配していたものですがナア。あの広い表座敷で、君と僕と、よく種々《いろいろ》な話をしましたッけ。あの時分、君が言ったことを、僕はまだ覚えていますよ」
「あの時分は、全然《まるで》私は夢中でした」と正太は打消すように笑って、「しかし、叔父さん、私の家を御覧なさい――不思議なことには、代々若い時に家を飛出していますよ。第一、祖父《おじい》さんがそうですし――阿父《おやじ》がそうです――」
「へえ、君の父親さんの若い時も、やはり許諾《ゆるし》を得ないで修業に飛出した方かねえ」
「私だってもそうでしょう――放縦な血が流れているんですネ」
と正太は言ってみたが、祖父の変死、父の行衛などに想《おも》い到った時は、妙に笑えなかった。
やがて庭にある木犀の若葉が輝き初めた。お雪は姪《めい》と連立って、急いで帰って来た。彼女の袂《たもと》の中には、娘の好きそうなものが入れてあった。買物のついでに、ある雑貨店から求めて来た毛糸だ。それをお房にくれた。
「今し方まで菊ちゃんのお墓に居たものですから、こんなに遅くなりました――延ちゃんと二人でさんざん泣いて来ました」
こうお雪は夫に言って、いそいそと台所の方へ行って働いた。
正太がこの郊外へ訪ねて来る度《たび》に、いつも叔父は仕事々々でいそがしがっていて、その日のようにユックリ相手に成ったことはめずらしかった。夕飯の仕度《したく》が出来るまで、二人は表の方の小さな部屋へ行ってみた。畠から鍬《くわ》を舁《かつ》いで来た農夫、町から戻って来た植木屋の職人――そういう人達は、いずれも一日の労働を終って窓の外を通過ぎる。
三吉は窓のところに立って、ションボリと往来の方を眺めながら、
「どうかすると、こういう夕方には寂しくて堪《た》えられないようなことが有るネ――それが、君、何の理由も無しに」
「私の今日《こんにち》の境涯では猶更《なおさら》そうです――しかし、叔父さん、そういう感じのする時が、一番心は軟かですネ」
こう正太が答えた。次第に暮れかかって来た。その部屋の隅《すみ》には、薄暗い壁の上に、別に小窓が切ってあって、そこから空気を導くようになっている。青白い、疲れた光線は、人知れずその小障子のところへ映っていた。正太はそれを夢のように眺めた。
夕飯はお雪の手づくりのもので、客と主人とだけ先に済ました。未だ正太は言いたいことがあって、それを言い得ないでいるという風であったが、到頭三吉に向ってこう切出した。
「実は――今日は叔父さんに御願いが有って参りました」
他事《ほか》でも無かった。すこし金を用立ててくれろというので有った。これまでもよく叔父のところへ、五円貸せ、十円貸せ、と言って来て、樺太《からふと》行の旅費まで心配させたものであった。
「そんなに君は困るんですか」と三吉は正太の顔を見た。「郷里《くに》の方からでも、すこし兵糧《ひょうろう》を取寄せたら可いじゃ有りませんか」
「そこです」と正太は切ないという容子《ようす》をして、「なるべく郷里へは言って遣りたくない……ああして、店は店で、若い者が堅めていてくれるんですからネ」
萎《しお》れた正太を見ると、何とかして三吉の方ではこの甥の銷沈《しょうちん》した意気を引立たせたく思った。彼はいくらかを正太の前に置いた。それがどういう遣《つか》い道の金であるとも、深く鑿《ほ》って聞かなかった。
やがて正太は自分の下宿を指して帰って行った。後で、お雪は台所の方を済まして出て来て、夫と一緒に釣洋燈《つりランプ》の前に立った。
「正太さんは、未だ、何事《なんに》も為《な》すっていらッしゃらないんでしょうか」
「どうも思わしい仕事が無さそうだ。石炭をやってみたいとか、何とか、来る度に話が変ってる。何卒《どうか》して早く手足を延ばすようにして遣りたいものだネ――あの人も、橋本の若旦那《わかだんな》として置けば、立派なものだが――」
こういう言葉を交換《とりかわ》して置いて、夫婦は同じようにお房の様子を見に行った。
お房の発熱は幾日となく続いた。庭に向いた部屋へ子供の寝床を敷いて、その枕頭《まくらもと》へお雪は薬の罎《びん》を運んだ。鞠《まり》だの、キシャゴだの、毛糸の巾着《きんちゃく》だの、それから娘の好きな人形なぞも、運んで行った。お房は静止《じっと》していなかった。臥《ね》たり起きたりした。
ある日、三吉は町から買物して、子供の方へ戻って来た。父の帰りと聞いて、お房は寝衣《ねまき》のまま、床の上に起直った。そして、家の周囲《まわり》に元気よく遊んでいる近所の娘達を羨《うらや》むような様子して、子供らしい眼付で父の方を見た。
「房ちゃん、御土産《おみや》が有るぜ」
と三吉は美しい色のリボンをそこへ取出した。彼は、食のすすまない子供の為《ため》にと思って、ミルク・フッドなども買求めて来た。
「へえ、こんな好いのをお父さんに買って頂いたの」
とお雪もそこへ来て言って、そのリボンを子供に結んでみせた。
「房ちゃんは何か食べたかネ」と三吉は妻に尋ねた。
「お昼飯《ひる》に、お粥《かゆ》をホンのぽっちり――牛乳は厭《いや》だって飲みませんし――真実《ほんと》に、何物《なんに》も食べたがらないのが一番心配です」
「ねえ、房ちゃん、御医者様の言うことを聞いて、早く快《よ》く成ろうねえ。そうすると、父さんが房ちゃんに好く似合うような袴を買ってくれるよ」
こう父に言われて、お房は唯|黙頭《うなず》いた。やがて復《ま》た横に成った。
「ああ、父さんも疲れた」と三吉は子供の側へ身体《からだ》を投出すようにした。「菊ちゃんが居なくなって、急に家の内が寂しく成ったネ。ホラ、父さんが仕事をしてる時、机の前に二人並べて置いて、『父さんが好きか、母さんが好きか』と聞くと、房ちゃんは直に『父さん』と言うし――菊ちゃんの方は暫時《しばらく》考えていて、『父さんと母さんと両方』だトサ――あれで、菊ちゃんも、ナカナカ外交家だったネ」
「何方《どっち》が外交家だか知れやしない」とお雪は軽く笑った。
病児を慰めようとして、三吉は種々なことを持出した。山に居る頃はお房もよく歌った兎《うさぎ》の歌のことや、それからあの山の上の家で、居睡《いねむり》してはよく叱られた下婢《おんな》が蛙《かわず》の話をしたことなぞを言出した。七年の長い田舎《いなか》生活の間、あの石垣の多い傾斜の方で、毎年のように旅の思をさせた蛙の声は、まだ三吉の耳にあった。それを子供に真似《まね》て聞かせた。
「ヒョイヒョイヒョイヒョイヒョイ……グッグッ……グッグッ……」
「いやあな父さん」
とお房は寝ながら父の方を見て言った。自然と出て来た微笑《えみ》は僅《わず》かにその口唇《くちびる》に上った。
「房ちゃん、母さんが好い物を造《こしら》えて来ましたよ――すこし飲んでみておくれな」
とお雪は夫が買って来たミルク・フッドを茶碗《ちゃわん》に溶かして、匙《さじ》を添えて持って来た。子供は香ばしそうな飲料《のみもの》を一寸|味《あじわ》ったばかりで、余《あと》は口を着けようともしなかった。その晩から、お房は一層激しい発熱の状態《ありさま》に陥った。何となくこの児の身体には異状が起って来た。
「真実《ほんと》に、串談《じょうだん》じゃ無いぜ」
と三吉は物に襲われるような眼付をして、いかにしてもお房ばかりは救いたいということを妻に話した。不思議な恐怖は三吉の身体を通過ぎた。お雪も碌《ろく》に眠られなかった。
翌々日、お房は病院の方へ送られることに成った。病み震えている娘を抱起すようにして、母は汚《よご》れた寝衣を脱がせた。そして、山を下りる時に着せて連れて来たヨソイキの着物の筒袖《つつそで》へ、お房の手を通させた。
「まあ、こんなに熱いんですよ」
とお雪が言うので、三吉はコワゴワ子供に触《さわ》ってみた。お房の身体は火のように熱かった。
「病院へ行って御医者様に診《み》て頂くんだよ――シッカリしておいでよ」と三吉は娘を励ました。
「母さん……前髪をとって頂戴《ちょうだい》な」
熱があっても、お房はこんなことを願って、リボンで髪を束ねて貰った。
頼んで置いた車が来た。先《ま》ずお雪が乗った。娘は、父に抱かれながら門の外へ出て、母の手に渡された。下婢《おんな》は乳呑児の種夫を連れて、これも車でその後に随《したが》った。
「延、叔父さんもこれから行って見て来るからネ、お前に留守居を頼むよ」
こう三吉は姪に言い置いて、電車で病院の方へ廻ることにした。慌《あわただ》しそうに彼は家を出て行った。
留守には、親類の人達、近く郊外に住む友人などが、かわるがわる見舞に来た。「延ちゃん、お淋《さび》しいでしょうねえ」と庭伝いに来て言って、娘を慰める小学校の女教師もあった。子供の病が重いと聞いて、お雪は言うに及ばず、三吉まで病院を離れないように成ってからは、二番目の兄の森彦が泊りに来た。森彦は夕方に来て、朝自分の旅舎《やどや》へ帰った。
相変らず家の内はシンカンとしていた。道路《みち》を隔てて、向側の農家の方で鳴く鶏の声は、午後の空気に響き渡った。強い、充実した、肥《ふと》った体躯《からだ》に羽織袴を着け、紳士風の帽子を冠《かぶ》った人が、門の前に立った。この人が森彦だ――お延の父だ。その日は、お房が入院してから一週間余に成るので、森彦も病院へ見舞に寄って、例刻《いつも》よりは早く自分の娘の方へ来た。
「阿父《おとっ》さん」
とお延は出て迎えた。
郷里《くに》を出て長いこと旅舎生活《やどやずまい》をする森彦の身には、こうして娘と一緒に成るのがめずらしくも有った。傍《そば》へ呼んで、病院の方の噂《うわさ》などをする娘の話振を聞いてみた。田舎から来てまだ間も無いお延が、都会の娘のように話せないのも無理はない、などと思った。
「どうだね、お前の頭脳《あたま》の具合は――此頃《こないだ》もここの叔父さんが、どうも延は具合が悪いようだから、暫時《しばらく
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