し振の炉辺に居て、幸作を相手に沢田という潔癖な老人のあったことなぞを尋ねた。あの忠寛の旧《ふる》い友達で、よくこの家へやって来た老人は疾《とう》に亡くなっていた。
ふと、三吉は耳を澄ました。玄関の方へ寄った薬の看板のかげでは、お島の忍び泣するけはいがした。
「そうかナア」という眼付をしながら、三吉は炉辺からお仙のボンヤリ立っている小部屋を通って、姉の居る方へ来た。
奥座敷の中央《まんなか》には、正太が若い時に手ずから張って漆を抹《は》いたという大きな一閑張《いっかんばり》の机が置いてある。その前に、お種は留守を預ったという顔付で、先代から伝った古い掛物を後にして、達雄の坐るところに自分で坐っていた。豊世は茶道具を出して、それを机の上に運んだ。
三吉はこの座敷ばかりでなく、納戸《なんど》の方だの、新座敷の方だのを見廻した。改革以来、沢山な道具も減った。たださえ広い家が余計に広く見えた。
「でも、思いの外|種々《いろいろ》な道具が残ってるじゃ有りませんか」と彼は言って見た。
「皆なの丹精で、これまでに為たわい。旦那が出て了った後で、私がお前さんの家から帰って来た時なぞは……眼も当てられすか」とお種は肩を動《ゆす》った。
「そう言えば、達雄さんも満洲の方へ行ったそうですネ」
「そうだゲナ――」
「姉さん、貴方は達雄さんに置去《おきざり》にされたような気はしませんか」
「神戸に居る間は、未だそうは思わなかったよ……どうも帰って来てくれそうな気がして……満洲へ行って了った……それを聞いた時は、最早私も駄目かと思った……」
「仕方が有りません。思い切るサ」
「三吉――お前はそんなことを言うが、どうしても私は思い切れんよ」
お種は心細そうに笑った。
ゴーという音が庭先の崖下の方で起った。工夫が石を積んで通る「トロック」の音だ。お種は頭脳《あたま》へでも響けるように、その重い音の遠く成るまで聞いた。やがて、名古屋に居る正太の噂を始めた。彼女は幾度も首を振って、「どうかして彼《あれ》がウマクやってくれると可いが」を熱心に繰返した。
茶が入ったので、隣の新座敷に薬の紙を折っていたお仙が母の傍へ来た。豊世は幸作夫婦を呼びに行った。
養子夫婦が入って来ると、急にお種は改まって了った。幸作は橋本の薬を偽造したものから、詫《わび》を入れに来た話なぞをして、その男が置いて行った菓子折を取出した。
「どれ、皆なで偽薬《にせぐすり》の菓子をやらまいか」
と幸作は笑って、それを客にもすすめ、自分でも食った。
お種は若い嫁の方を鋭く見て、
「お島は甘いものが好きだに、沢山《たんと》食べろや――」
「頂いております」とお島は夫の傍に居て。
「オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは――」
姑は無理に笑おうとしていた。
長くも若夫婦は茶を飲んでいなかった。二人が店の方へ行った後で、三吉は姉に向って、
「姉さんの顔は、どうしてそんなにコワく成りましたかネ」
「そうか――俺の顔はコワいか」とお種は自分の眉《まゆ》を和《やわら》げるように撫《な》でながら、「年をとると、女でも顔がコワく成るで……どうかして俺は平静《たいら》な心を持つように、持つように、と思って……こうして毎日自分の眉を撫でるわい」
「どうも貴方の調子は皮肉だ。あんまり種々な目に遭遇《であ》って、苦しんだものだから、自然と姉さんはそう成ったんでしょう。目下のものはヤリキれませんぜ」
「そんなに俺は皮肉に聞えるか」
「聞えるかッて――『オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは』――あんなことを言われちゃ、どんな嫁さんだって食べられやしません」
豊世やお仙は笑った。お種も苦笑して、
「三吉、そうまあ俺を責めずに、一つこの身体を見てくれよ。俺はこういうものに成ったよ――」
と言って、着物の襟《えり》をひろげて、苦み衰えた胸のあたりを弟に出して見せた。骨と皮ばかりと言っても可かった。萎《しな》びた乳房は両方にブラリと垂下っていた。三吉は、そこに姉の一生を見た。
「エライもんじゃないか」
とお種は自分で自分の身体を憐《あわれ》むように見て、復《ま》た急に押隠した。満洲の実から彼女へ宛《あ》てて来た手紙が文机《ふづくえ》の上にあった。彼女はそれを弟に見せようとして、起って行った。
「ア、ア、ア、ア――」
思わずお種は旧い家の内へ響けるような大欠伸《おおあくび》をした。
幸作は表座敷に帳簿を調べていた。優雅な、鷹揚《おうよう》な、どことなく貴公子らしい大旦那のかわりに、進取の気象に富んだ若い事務家が店に坐った。達雄の失敗に懲りて、幸作はすべて今までの行き方を改めようとしていた。暮しも詰めた。人も減らした。炉辺に賑やかな話声が聞えようが、聞えまいが、彼はそんなことに頓着《とんじゃく》していなかった。ドシドシ薬を売弘めることを考えた。「大旦那の時分には、あんなに多勢の人を使って、今の半分も薬が売れていない――あの時分の人達は何を為ていたものだろう――母親さん達は皆なの食う物をこしらえる為にいそがしかった」こう思っていた。お種に取って思出の部屋々々も彼には無用の長物であった。
こういう実際的な幸作のところへ、旧家の空気も知らないお島が嫁《かたづ》いて来た。達雄やお種から見ると、二人は全く別世界の人であった。若い夫婦はどうお種を慰めて可いか解らなかった。
三吉はこの人達の居る方へ来て見た。そこは以前彼が直樹と一緒に一夏を送った座敷で、庭の光景《さま》は変らずにある。谷底を流れる木曾川の音もよく聞える。壁の上には、正太から送って来た水彩画の額が掛っている。こういうものを見て楽む若旦那の心は幸作にもあった。
「姉様《あねさま》を呼んでお出《いで》」
と幸作は妻に吩咐《いいつ》けた。
豊世は困ったような顔付をして、奥座敷の方から来た。「こんな折にでも話さなければ話す折が無い」と言って、幸作はどんなに正太の成功を祈っているかということを話した。苦心して蓄積したものは正太の事業を助ける為に送っているということを話した。お仙を連れて空しく東京を引揚げてからのお種は、実に、譬《たと》えようの無い失望の人であった――こんなことを話した。
「兄様《あにさま》さえ好くやってくれたら、私は何事《なんに》も言うことは無い――私は今、兄様の為に全力を挙げてる――一切の事はそれで解決がつく」
と幸作は力を入れて言った。
姑と若夫婦と両方から話を聞かされて、三吉は碌《ろく》に休むことも出来なかった。その晩も、彼は奥座敷の方へ行って、復たお種の歎《なげ》きを聞いた。姉は遅くなるまで三吉を寝かさなかった。
夜が更《ふけ》れば更るほどお種の眼は冴《さ》えて来た。
「姉さん、若いものに任せて置いたら可いでしょう」
と三吉が言うと、姉はそれを受けて、
「いえ、だから俺は何事《なんに》も言わん積りサ――彼等《あれら》が好いように為て貰ってるサ――」
こういう調子が、どうかすると非常に激して行った。幸作夫婦が始めようとする新しい生活、ドシドシやって来る鉄道、どれもこれもお種の懊悩《なやま》しい神経を刺戟《しげき》しないものは無かった。この破壊の中に――彼女はジッとして坐っていられないという風であった。
お種は肩を怒らせて、襲って来る敵を待受けるかのように、表座敷の方を見た。
「なんでも彼等は旦那や俺の遣方《やりかた》が悪いようなことを言って――無暗《むやみ》に金を遣《つか》うようなことを言って――俺ばかり責める。若い者なぞに負けてはいないぞ。さあ――責めるなら責めて来い――」
橋本の炉辺では盛んに火が燃えた。三吉が着いて三日目――翌日は彼も姉の家を発《た》つと言うので――豊世やお島やお仙が台所に集って、木曾名物の御幣餅《ごへいもち》を焼いた。お種は台所を若いものに任せて置いて弟の方へ来た。
三吉は庭に出て、奥座敷の前をあちこちと見廻っていた。以前この庭の中で、家内《うち》中|揃《そろ》って写真を撮《と》ったことがある。それを三吉が姉に言って、達雄が立って写した満天星《どうだん》の木の前へ行きながら、そこは正太が腰掛けたところ、ここは大番頭の嘉助が禿頭《はげあたま》を気にしたところ、と指して見せた。彼は自分で倚凭《よりかか》って写した大きな石の間へ行って見た。その石の上へも昇った。
お種は、どうかすると三吉がずっと昔の鼻垂小僧《はなたらしこぞう》のように思われる風で、
「三吉、お前がそんなことをしてるところは、正太に酷《よ》く似てるぞや」
こう言って、彼女も座敷から庭へ下りた。姉は自分が培養している種々な草木の前へ弟を連れて行って見せた。山にあった三吉の家から根分をして持って来た谷の百合には赤い珊瑚珠《さんごじゅ》のような実が下っていた。こうして、花なぞを植えて、旧い家を夢みながら、未だお種は帰らない夫を待っているのであった。
新座敷は奥座敷とつづいてこの庭に向いている。その縁側のところへ来て、お仙が父の達雄に彷彿《そっくり》な、額の広い、眉の秀《ひい》でた、面長な顔を出した。彼女は何を見るともなく庭の方を見て、復た台所の方へ引込んで了った。
木曾路《きそじ》の紅葉を思わせるような深い色の日は、石を載せた板葺《いたぶき》の屋根の上にもあった。お種は自分が生れた山村の方まで思いやるように、
「三吉が行くなら、俺も一緒に御墓参をしたいが――まあ、俺は御留守居するだ」
独語《ひとりごと》のように言って、姉は炉辺の方へ弟を誘った。
午後に、お雪から出した手紙が三吉の許へ着いた。奥座敷の縁側に近いところで、三吉はその手紙を姉と一緒に読んだ。その時、お種は幸作に吩咐《いいつ》けて、家に残った陶器なぞを取出させて、弟に見せた。薬の客に出す為に特に焼かせたという昔の茶呑《ちゃのみ》茶椀から、達雄が食った古雅な模様のある大きな茶椀まで、大切に保存してあった。
「叔父さん、こんなものが有りましたが、お目に掛けましょうか」
と豊世は煤《すす》けた桐の箱を捜出して来た。先祖が死際《しにぎわ》に子供へ遺《のこ》した手紙、先代が写したらしい武器、馬具の図、出兵の用意を細く書いた書類、その他種々な古い残った物が出て来た。
三吉はその中に「黒船」の図を見つけた。めずらしそうに、何度も何度も取上げて見た。半紙程の大きさの紙に、昔の人の眼に映った幻影《まぼろし》が極く粗《あら》い木版で刷《す》ってある。
「宛然《まるで》――この船は幽霊だ」
と三吉は何か思い付いたように、その和蘭陀船《オランダぶね》の絵を見ながら言った。
「僕等の阿爺《おやじ》が狂《きちがい》に成ったのも、この幽霊の御蔭ですネ……」と復た彼は姉の方を見て言った。
お種は妙な眼付をして弟の顔を眺《なが》めていた。
「や、こいつは僕が貰って行こう」
と三吉はその図だけ分けて貰って、お雪の手紙と一緒に手荷物の中へ入れた。
叔父の出発は豊世に取って好い口実を与えた。こういう機会でも無ければ、彼女は容易に母を置いて行くことも出来ないような人であった。
「叔父さん、お願いですから私も連れてって下さいませんか。私も仕度しますわ」
と豊世は無理やりに叔父に頼んで、自分でも旅の仕度を始めた。
三吉はすこし煩《うるさ》そうに、「実は、僕は独《ひと》りで行きたい。それに他《ひと》の細君なぞを連れて行くのも心配だ」
「心配だと思うなら止《よ》すが可いぞや」とお種が言った。
「何でも私は随《つ》いてく」と豊世は新座敷の方から。
「じゃ、汽車に乗るところまで送って進《あ》げよう」と三吉も引受けた。
いよいよ別れると成れば、余計にお種は眠られない風であった。その晩、姉は奥座敷に休んで弟と一緒に遅くまで話した。姉の様子も気がかりなので、一旦《いったん》枕に就《つ》いた三吉は復た巻煙草を取出した。彼は先ずお仙の話をした。あれまでに養育したは姉が一生の大きな仕事であったと言った。薬の紙を折らせることも静かな手細工を与えたようなもので、自然と好い道を取って来たなどと言
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