トフォムへと急いだ。
「種ちゃんも、新ちゃんも、老爺さんに左様ならするんだよ」
と三吉は列車の横に近く子供を連れて行った。お雪は新吉を抱上げて見せた。
白い髯《ひげ》の生えた老人の笑顔が二等室の窓から出た。老人は窓際につかまりながら、娘や孫の方をよく見たが、やがて自分の席に戻って、暗然と首を垂れた。駅夫は列車と見送人の間を馳《は》せ歩いた。重い車の廻転する音が起った。
「阿爺《おとっ》さんも――ひょっとすると、これが東京の見納めだネ」
と三吉は、妻と一緒に見送った後で、言った。
五月に入っても、未だ正太は遊んでいた。森彦の方は、新しい事業に着手すると言って、勇んで名古屋へ発《た》って行った。
「正太さんもどうか成らないか。ああして遊ばせて置くのは、可惜《おし》いものだ」と三吉は心配そうにお雪に話して、甥《おい》の様子を見る為に、駒形の方へ出掛けた。
例の石垣の下まで、三吉は歩いた。正太の家には、往来から好く見えるところに、「貸二階」とした札が出してある。何となく家の様子が寂しい。三吉が石段を上って行くと、顔を出した老婆《ばあさん》まで張合の無さそうな様子をしていた。
正太夫婦は揃《そろ》って町へ買物に出掛けた時であった。程なく帰るであろう、という老婆を相手にして、しばらく三吉は時を送った。二階は貸すと見えて、種々な道具が下座敷へ来ている。玻璃《ガラス》障子のところへ寄せて、正太の机が移してあって、その上には石菖蒲《せきしょうぶ》の鉢《はち》なぞも見える。水色のカアテンも色の褪《あ》せたまま掛っている。
老婆は茶を勧めながら、
「是方《こちら》へ私が御奉公に上りました時は、まあこんな仲の好い御夫婦もあるものでしょうか、とそう思いまして御座いますよ。段々御様子を伺って見ますと……私はすっかり奥様の方に附いて了《しま》いました。そりゃ、貴方、女はどう致したって、女の味方に成りますもの……」
この苦労した人は、夫婦の間に板挾《いたばさ》みに成ったという風で、物静かな調子で話した。主人思いの様子は、奉公する人とも見えなかった。
「でも、是方の旦那様も、真実《ほんとう》に好い御方で御座いますよ」
と復た老婆が言った。
三吉は玻璃障子のところへ行って、眺めた。軒先には、豊世の意匠と見えて、真綿に包んだ玉が釣《つる》してある。その真綿の間から、青々とした稗《ひえ》の芽が出ている。隅田川はその座敷からも見えた。伊豆石を積重ねた物揚場を隔てて、初夏の水が流れていた。
「そう、三吉叔父さんがいらしって下すったの」
と豊世は、夫の後に随《つ》いて、町から戻って来た。
「奥様、先程も一人御二階を見にいらしった方が御座いました」
と老婆《ばあさん》が豊世に言ったので、正太夫婦は叔父の方を見た。夫婦の眼は笑っていた。
川の見えるところに近く、三吉は正太と相対《さしむかい》に坐った。その時正太は苦しそうな眼付をして、生活を縮める為にここを立退《たちの》こうかとも思ったが、折角造作に金をかけて、風呂まで造って置いて、この楽しい住居《すまい》を見捨てるのも残念である、暫時《しばらく》二階を貸すことにした、と叔父に話した。
「どうしていらっしゃるかと思って、今日は家から歩いてやって来ました」と三吉が言った。「途中に芥子《けし》を鉢植にして売ってる家がありました。こんな町中にもあんな花が咲くか、そう思ってネ、めずらしく山の方のことまで思出した。ホラ、僕等が居た山家の近所には芥子畠《けしばたけ》なぞが有りましたからネ」
「叔父さん、私共ではこういうものを造りました」と豊世は叔父の後へ廻って、軒先の真綿の玉を指してみせた。「稗蒔《ひえまき》ですよ――往来を通る人が皆な妙な顔をして見て行きます」
正太は何を見ても侘《わび》しいという風であった。豊世に、「彼方《あっち》へいってお出《いで》」と眼で言わせて置いて、
「実は叔父さん、私の方から御宅へ伺おうと思っていたところなんです。未だ御話も致しませんでしたが、近いうちに私も名古屋へ参るつもりです。彼方《あちら》の方で、来ないか、と言ってくれる人が有りましてネ……まあ二三年、私も稽古《けいこ》のつもりで、彼方の株式仲間へ入って見ます」
「そいつは何よりだ」と三吉が頼もしそうに言った。
正太は心窃《こころひそ》かに活動を期するという様子をした。自分で作った日露戦争前後の相場表だの、名古屋から取寄せている新聞だのを、叔父に出して見せて、
「叔父さんからも御話がよく有りますから、今度は私もウンと研究して見ます。下手に周章《あわ》てない積りです。この通り、彼方《あちら》の株の高低にも毎日注意を払っています……『どうして、橋本は行《や》るぜ、彼はナカナカの者だぜ』――そう言って、是方《こっち》の連中なぞは皆な私に眼を着けてる……」
「それに、君、森彦さんは彼方へ行ってるしサ――何かにつけて相談してみるサ」
「そうです。森彦叔父さんと私とは、全く別方面ですから、仕事は違いますけれど……あの叔父さんも、いよいよ今度が最後の奮闘でしょう――私はそう思います――まあ、彼方へ出掛けて、あの叔父さんの働き振も見るんですネ」
「でも、あの兄貴も……変った道を歩いて行く人さネ。何を為《し》てるんだか家のものにまで解らない……それを平気でやってる……あそこは面白いナ」
「何かこう大きな事業《こと》をしそうな人だなんて、豊世なぞもよくそう言っています」
「あの兄貴は一生夢の破れない人だネ――あれで通す人だネ――しかし、ナカナカ感心なところが有るよ。お俊ちゃんの家なぞに対しては、よくあれまでに尽したよ。大抵の者ならイヤに成っちまう……」
豊世が貰い物だと言って、款待顔《もてなしがお》に羊羮《ようかん》なぞを切って来たので、二人は他の話に移った。
「ここまで来て、眺望《ながめ》の好い二階を見ないのも残念だ」という叔父を案内して、一寸《ちょっと》豊世は楼梯《はしごだん》を上った。何となく二階はガランとしていた。額だけ掛けてあった。三吉は川に向いた縁側の欄《てすり》のところへ出てみた。
「豊世さん、顔色が悪いじゃ有りませんか。どうかしましたかネ」
「すこし……でも、この節は宅もよく家に居てくれますよ……何事《なんに》も為ませんでも、家で御飯を食べてくれるのが私は何よりです……」
叔父と豊世とはこんな言葉を替《かわ》しながら、薄く緑色に濁った水の流れて行くのを望んだ。豊世は愁《うれ》わしげに立っていた。
「どうかしますと、私は……こう胸がキリキリと傷《いた》んで来まして……」
こう訴えるような豊世の顔をよく見て、間もなく三吉は正太の方へ引返した。
玄関の隅《すみ》には、正太が意匠した翫具《おもちゃ》の空箱が沢山積重ねてあった。郷里《くに》から取寄せた橋本の薬の看板も立掛けてあった。復た逢う約束をして、三吉は甥に別れた。
「正太さんを褒《ほ》めるのは貴方ばかりだ」
お雪が自分の家の二階で、夫に話しているところへ、勝手を知った豊世が階下《した》から声を掛けて上って来た。
「叔母さん、御免なさいよ。御断りも無しで入って来て――」
と豊世は親しげな調子で挨拶《あいさつ》した。
正太が名古屋へ発ってから、こうして豊世はよく訪ねて来るように成った。長いことお雪は豊世に対して、好嫌《すききらい》の多い女の眼で見ていた。「豊世さんも好いけれど……」とかなんとか言っていたものであった。正太と小金の関係を知ってから、急にお雪は豊世の味方をするように成った。豊世の方でも、「叔母さん、叔母さん」と言って、旅にある夫の噂《うわさ》だの、留守居の侘《わび》しさだの、二階を貸した女の謡の師匠の内幕だのを話しに来る。正太が発《た》つ、一月あまり経つと、最早町では青梅売の声がする。ジメジメとした、人の気を腐らせるような陽気は、余計に豊世を静止《じっと》さして置かなかった。
「豊世さん――正太さんの許から便りが有りましたぜ」
と三吉に言われて、豊世は叔父の方へ向いた。風呂敷包の中から小説なぞを取出して、それを傍に居る叔母へ返した。
三吉は笑いながら、「何か貴方は心細いようなことを名古屋へ書いて遣《や》りましたネ」
「何とか叔父さんの許へ言って参りましたか」
「正太さんの手紙に、『私は未だ若輩の積りで、これから大に遣ろうと思ってるのに、妻《さい》は最早|老《おい》に入りつつあるか……そう思うと、何だか感傷の情に堪《た》えない』――なんて」
それを聞いて、豊世はお雪と微笑《えみ》を換《かわ》した。名古屋から送るべき筈《はず》の金も届かないことを、心細そうに叔父叔母の前で話した。
二階から見える町家の屋根、窓なぞで、湿っていないものは無かった。空には見えない雨が降っていた。三人は、水底《みなそこ》を望んでいるような、忍耐力《こらえじょう》の無い眼付をして、時々話を止《や》めては、一緒に空の方を見た。どうかすると、遠く濡《ぬ》れた鳥が通る。それが泳いで行く魚の影のように見える。
「豊世さん――一体貴方は向島のことをどう思ってるんですか」三吉が切出した。
「向島ですか……」と豊世は切ないという眼付をして、「何だか私は……宅に捨てられるような気がして成りませんわ……」
「馬鹿な――」
「でも、叔父さんなぞは御存《ごぞんじ》ないでしょうが、宅でまだ川向に居ました時分――丁度私は一時|郷里《くに》へ帰りました時――向島が私の留守へ訪ねて来て、遅いから泊めてくれと言ったそうです。後で私はそのことを先《せん》の老婆《ばあや》から聞きました。よく図々《ずうずう》しくも、私の蒲団《ふとん》なぞに眠られたものだと思いましたよ。そればかりじゃありません、宅で向島親子を芝居に連れてく約束をして、のッぴきならぬ交際《つきあい》だから金を作れと言うじゃ有りませんか。私はそんな金を作るのはイヤですッて、そう断りました。すると、宅が癇癪《かんしゃく》を起して、いきなり私を……叔父さん、私は擲《なぐ》られた揚句に、自分の着物まで質に入れて……」
豊世はもう語れなかった。瀟洒《しょうしゃ》な襦袢《じゅばん》の袖を出して、思わず流れて来る涙を拭《ぬぐ》った。
「叔父さん――真実《ほんと》に教えて下さいませんか――どうしたら男の方の気に入るんでしょうねえ」
と復た豊世は力を入れて、真実|男性《おとこ》の要求を聞こうとするように、キッと叔父を見た。
「どうしたら気に入るなんて、私にはそんなことは言えません」と三吉は頭を垂れた。
「でも、ねえ、叔母さん――」と豊世はお雪に。
「亭主を離れて観るより外に仕方が無いでしょう」と三吉はどうすることも出来ないような語気で言った。
「そんなら、叔父さんなんか、どういう気分の女でしたら面白いと御思いなさるんですか」
「そうですネ」と三吉は笑って、「正直言うと、これはと思うような人は無いものですネ……昔の女の書いたものを見ると、でも面白そうな人もある。八月のさかりに風通しの好いところへ花莚《はなむしろ》を敷いて、薄化粧でもして、サッパリとした物を着ながら独《ひと》りで寝転《ねころ》んで見たなんて――私はそういう人が面白いと思います」
豊世とお雪は顔を見合せた。
子供の喧嘩《けんか》する声が起った。それを聞きつけて、お雪は豊世と一緒に階下《した》へ降りた。茶の用意が出来たと言われて、三吉も下座敷へ飲みに来た。
「馬鹿野郎!」
いきなり種夫はそいつを父へ浴せ掛けた。
「種ちゃんは誰をつかまえても『馬鹿野郎』だ」と三吉は子供を見て笑った。「でも、お前の『馬鹿野郎』は可愛らしい『馬鹿野郎』だよ」
「種ちゃんの口癖に成って了いました」とお雪は豊世に言って聞かせた。「御客のある時なぞは、真実《ほんと》に困りますよ」
「豊世さん、煙草はいかが」
と三吉は巻煙草を取出して、女の客や妻の前でウマそうに燻《ふか》した。
「一本頂きましょうか」と豊世は手を出した。「自分じゃそう吸いたいとも思いませんが、他様《ひとさま》が燻していらっしゃると、
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