とは無い。今までは儲けようと思わなかったから、儲からなかった。これからは大いに儲けようと思うんだ――ナニ、いかないことは無い」
「どうも私は、今までと同じように成りやしないかと思って、それで心配してるんです……何だか、こう、吾儕《われわれ》には死んだ阿爺《おやじ》が附纏《つきまと》っているような気がする……何処へ行って、何を為《し》ても、必《きっ》と阿爺が出て来るような気がする……森彦さん、貴方はそんなこと思いませんかネ」
兄は黙って弟の顔を見た。
「私はよくそう思いますが」と三吉は沈んだ眼付をして、「橋本の姉さんがああしているのと、貴方がこの旅舎《やどや》に居るのと、私が又、あの二階で考え込んでいるのと――それが、座敷牢の内に悶《もが》いていた小泉忠寛と、どう違いますかサ……吾儕は何処へ行っても、皆な旧《ふる》い家を背負って歩いてるんじゃ有りませんか」
「そうさナ……」
「そいつを私は破壊《ぶちこわ》したいと思うんです。折があったら、貴方にも言出してみようみようと思っていたんです……」
「待ってくれ――俺も直《じ》き五十だよ。五十に成ってサ、未だそれでも俺の思うように成らなかったら、その時はお前の意見を容《い》れる。田舎へでも何でも引込む。それまで待ってくれ」
「いえ、私はそういう意味で言ってるんじゃ無いんです……」
「それはそうと、先刻《さっき》の金のことはどうしてくれる」
「何とか工面して見ましょう。いずれ御返事します」
「そんなことを言わないで、確かに是処《ここ》で引受けて帰ってくれ」と言って、森彦は調子を変えて、「今日は、貴様は、ドエライやつを俺の許《とこ》へ打込みに来たナ――いや、しかし面白かった」
兄は高い声で笑った。
晩の八時過に、三吉はこの旅舎を辞した。電車で帰って行く途中、彼は兄の一生を思いつづけた。家へ入ると、お雪は夫から帽子や外套《がいとう》を受取りながら、
「森彦さんのとこでは、どんな御話が有りました」と尋ねた。
「ナニ、金の話サ」と三吉は何気なく答える。
「大方そんなことだろうッて、阿爺《おとっ》さんも噂《うわさ》していましたッけ――阿爺さんが貴方のことを、『父さんも余程兄弟孝行だ』なんて――」
夜中から降出した温暖《あたたか》な雨は、翌朝《よくあさ》に成って一旦|休《や》んで、更に淡い雪と変った。
午後に、種夫や新吉は一人ずつ下婢《おんな》に連れられて、町の湯から帰った。銀造も洗って貰いに行って来た。お雪は傘《かさ》をさして、終《しまい》に独りで泥濘《ぬか》った道を帰って来た。
明るい空からは、軽い綿のようなやつがポタポタ落ちた。お雪は足袋《たび》も穿《は》いていなかった。多くの女のように、薄着でもあった。それでも湯上りのあたたかさと、燃えるような身体の熱とで、冷々《ひやひや》とした空気を楽しそうに吸った。濡《ぬ》れた町々の屋根は僅《わず》かに白い。雪は彼女の足許《あしもと》へも来て溶けた。この快感は、湯気で蒸された眼ばかりでなく、彼女の肌膚《はだ》の渇《かわき》をも癒《いや》した。
「長い湯だナア」と母は、帰って来たお雪を見て、叱るように言った。
「だって、子供を連れてるんですもの」
こうお雪は答えて置いて、勝手の方へ通り抜けた。
冷い水道の水はお雪を蘇生《いきかえ》るようにさせた。彼女は額の汗をも押拭《おしぬぐ》った。箪笥《たんす》の上には、家のものがかわるがわる行く姿見がある。彼女はその前に立った。細い黄楊《つげ》の鬢掻《びんかき》を両方の耳の上に差した。濡れて乱れたような髪が、その鏡に映った。
「叔母さん、お湯のお帰り?」
こう正太が、お雪の知らないうちに入って来て、声を掛けた。正太は叔母の後を通過ぎて、楼梯《はしごだん》を上った。
「正太さん、よくこの道路《みち》の悪いのに、御出掛でしたネ」
と三吉は二階に居て迎えた。
「ええ、叔父さんの許より外に、気を紛らしに行く処も有りませんから」
こう言って、正太は、長い紺色の絹を首に巻付けたまま、叔父の前に坐った。部屋の障子の玻璃《ガラス》を通して、湿った屋外《そと》の空気が見られる。何となく正太は向島の方へ心を誘われるような眼付をしていた。
「いかにも春の雪らしい感じがしますネ」と正太は叔父と一緒に屋外《そと》を眺めながら言った。
「正太さん、昨日僕は森彦さんの宿へ行ってネ。金の話が出ました。その序《ついで》に、種々《いろいろ》なことを話し込んだ。田舎へ行ったらどうです、それまで僕は言って見た――午後の三時から八時頃まで話した」
「や、そいつはエラかった。三時から八時に渡ったんじゃ――どうして。森彦叔父さんと貴方の対話が眼に見えるようです」
「しかし、話してみて、互に了解する場合は少いネ。僕の方で思うことは、真実《ほんとう》に森彦さんには通じないような気がした。言い方も悪かったが。唯、田舎へでも引込め――そういう意味に釈《と》られて了った」
「そりゃ、叔父さん、森彦さんには出来ない相談です。あの叔父さんは、第一等の旅館に泊って、第一等の宿泊料を払って行く人です。苦しい場合でも、そうしないでは気の済まない人です。草鞋穿《わらじばき》で、土いじりでもしながら、片手間に用務を談ずるなんて、そういう気風の人じゃ有りません」
「極く平民的な人のようだが、一面は貴族的だネ。どうしても大きな家に生れた人だネ。すこし他《ひと》が難渋して来ると、なアに俺がどうかしてやるなんて――御先祖の口吻《くちぶり》だ」
こう話し合って見ると、二人は森彦のことを言っていながら、それが自然と自分達のことに成って来るような気がした。旧家に生れたものでなければ無いような頽廃《たいはい》の気――それを二人は互に嗅《か》ぎ合う心地もした。
「森彦さんから、僕に二百円ばかり造れと言うんサ」と三吉は以前の話に戻って、「それがネ。真実《ほんとう》にあの人の為に成ることなら、どんなことをしても僕は造るサ。特にその為に一作するサ。どうも今日《こんにち》の状態じゃ、復た前と同じことに成りゃしないか……それに、僕だって、君、ヤリキレやしないよ……」
と言いかけて、暫時《しばらく》三吉は聞耳を立てた。階下《した》では老人の咳払《せきばらい》が聞える。
「名倉の阿爺《おとっ》さんなぞは、君、今に僕が共潰《ともつぶ》れに成るか成るかと思って、あの通り熟《じっ》と黙って見てる……決して僕を助けようとはしない。実に、強い人だネ。僕もまた、痩我慢《やせがまん》だ。仕事のことであの阿爺さんに助けられても、暮し向のことや何かで助けてくれと言ったことは無い。ああして、下手に助けないで、熟《じっ》と黙って見てる――あそこはあの阿爺さんの面白いところさネ」
その時、表の戸を開けて入って来る客の声がした。階下では皆なの話声が起った。
「ああ、※[#「※」は「ひとがしら+ナ」、188−18]さんだ」
と三吉が正太の顔を見ながら言っているところへ、お雪はそれを告げに来た。三吉は正太に会釈して置いて、一寸《ちょっと》階下へ降りた。
老人や母や勉は長火鉢の周囲《まわり》に集っていた。三吉は友達に話し掛けるような調子で、勉に話し掛けた。
「へえ、今度も商用の方ですか」
「ええ、毎年一度や二度は出て来なけりゃ成りません」と勉は商人らしい調子で言った。「時に小泉さん、※[#「※」は「○の中にナ」、189−6]の兄さんから御言伝《おことづけ》がありましたが、貴方の御宅でも女中が御入用《おいりよう》だそうですから――近いうちに一人連れて御出掛に成るそうです」
「そうですか、そいつは難有《ありがた》い。名倉の兄さんもどうしてますかネ。相変らず御店の方ですかネ」
「大将も多忙《いそが》しがっています」
こんな調子で、三吉は打解けて話した。彼はお雪を傍へ呼んで、勉を款待《もてな》させて、復た正太の居る方へ上って行った。
「ええ、福ちゃんの旦那さんです。彼方《あっち》の方の人達は大阪の商人《あきんど》に近いネ。皆な遣方《やりかた》がハゲしい」
と三吉は正太の前に復《もど》って言った。
未だ正太は思わしい仕事も無く、ブラブラしていた。骨を折って口を見つけに飛び歩こうともしていなかった。彼はいくらか窶《やつ》れても見えた。謡《うたい》の会の噂、料理の通、それから近く欧洲を漫遊し帰って来たある画家の展覧会を見たことなど、雪の日らしい雑談をした後で、正太は帰って行った。
修業ざかりの娘を二人まで控えた森彦の苦んでいる姿が、三吉の眼にチラついた。彼は兄を助けずにいられないような気がした。名倉の両親に隠すようにして金をつくることを考えた。
※[#「※」は「○の中にナ」、190−5]の兄と連立って、名倉の母が長逗留《ながとうりゅう》の東京を去る頃は――三吉は黙って考えてばかりいる人でもなかった。「随分、父さんはコワい眼付をする」と名倉の母はよく言ったが、そういう眼付で膳に対って、飯を食えば直に二階へ上って行って了うような――最早そんな人でもなかった。
時には、楼梯《はしごだん》を踏む音をさせて、用もないのに三吉は二階から降りて来た。下座敷の柱に倚凭《よりかか》って、
「お雪、俺とお前と何方《どっち》が先に死ぬと思う」
「どうせ私の方が後へ残るでしょうから、そうしたら私はどうしよう――何にも未だ子供のことは為《し》て無いし――父さんの書いた物が遺《のこ》ったって、それで子供の教育が出来るか、どうか、解らないし(まあ、覚束《おぼつか》ないと思わなけりゃ成りません、何処の奥さんだって困っていらっしゃる)と言って、女の教師なぞは私の柄に無い――そうしたら私は仕方が無いから、女髪結にでも成ろうかしら――」
夫婦は互に言ってみた。
名倉の老人は、母だけ先へ返して、自分一人、娘の家に残った。若い時から鍛えた身体だけあって、三吉の家から品川あたりへ歩く位のことは、何とも思っていなかった。疲れるということを知らなかった。朝は早く起きて、健脚にまかせて、市中到る処の町々、変りつつある道路、新しい橋、家、水道、普請中の工事なぞを見て廻った。東京も見尽したと老人は言っていた。
「でも、阿爺《おとっ》さんは、割合に歩かなく成りました――あれだけ年をとったんですネ」
とお雪は言った。
いよいよ老人も娘や孫に別れを告げて帰国する日が来た。※[#「※」は「○の中にナ」、191−4]の兄が連れて来てくれた下婢《おんな》に、留守居を頼んで置いて、三吉夫婦は老人と一緒に家を出た。子供は、種夫と新吉と二人だけ見送らせることにした。
「老爺《おじい》さんが彼方《あっち》へ御帰りなさるんだよ――種ちゃんも、新ちゃんも、サッサと早く歩きましょうネ」
とお雪は歩きながら子供に言って聞かせた。半町ばかり行ったところで、彼女は新吉を背中に乗せた。
老人と三吉は、時々町中に佇立《たたず》んで、子供の歩いて来るのを待った。幾羽となく空を飛んで来た鳥の群が、急に町の角を目がけて、一斉に舞い降りた。地を摺《す》るかと思うほど低いところへ来て、鳴いて、復た威勢よく舞い揚った。チリヂリバラバラに成った鳥は、思い思いの軒を指して飛んだ。
「最早|燕《つばめ》が来る頃に成りましたかネ」
と三吉は立って眺めた。
電車で上野の停車場《ステーション》まで乗って、一同は待合室に汽車の出る時を待った。老人はすこしも静止《じっと》していなかった。どうかすると三吉の前に立って、若い者のような声を出して笑った。
お雪の側には、二人の子供がキョロキョロした眼付をして、集って来る旅客を見ていた。老人はその方へ行った。かわるがわる子供の名を呼んで、
「皆な温順《おとな》しくしてお出――復た老爺《おじい》さんが御土産《おみや》を持って出て来ますぜ」
「名倉の老爺さんが復た御土産を持って来て下さるトサ」とお雪は子供に言い聞かせた。
「この老爺さんも、未だ出て来られる……」
こう老人はお雪を見て言って、復た老年らしい沈黙に返った。
発車の時間が来た。三吉夫婦はプラッ
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