たか》って私を捕虜にして了った」
 愛慾の為に衰耄《すいもう》したような甥の姿が、ふとその時浮び上るように、三吉の眼に映じた。二人は両国の河蒸汽の出るところまで、一緒に歩いて、そこで正太の方は厩橋行に乗った。白いペンキ塗の客船が石炭を焚《た》く船に引かれて出て行くまで、三吉は鉄橋の畔に佇立《たたず》んでいた。


 笑って正太と話していた三吉も、甥が別れて行った後で、急に軽い眩暈《めまい》を覚えた。頭脳《あたま》の後部《うしろ》の方には、圧《お》しつけられるような痛みが残っていた。
 疲労に抵抗するという眼付をしながら、三吉は元来た道を神田川の川口へと取った。
 潮に乗って入って来る船は幾|艘《そう》となく橋の下の方へ通過ぎた。岸に近く碇泊《ていはく》する船もあった。しばらく三吉は考えを纏《まと》めようとして、逆に流れて行く水を眺めて立った。
「どうせ一生だ」
 と彼は思った。夫は夫、妻は妻、夫が妻をどうすることも出来ないし、妻も夫をどうすることも出来ない。この考えは、絶望に近いようなもので有った。
「ア――」
 長い溜息《ためいき》を吐《つ》いて、それから三吉はサッサと家の方へ帰って行った。
 丁度、名倉の老人が一杯始めた時で、膳《ぜん》を前に据えて、手酌でちびりちびりやっていた。
「何卒《どうぞ》御構いなく、私はこの方が勝手なんで御座いますから」
 と老人は三吉に言って、自分で徳利の酒を注いだ。
 お雪は勝手の方から、何か手造りのものを皿に盛って持って来た。老人の癖で、酔が廻って来ると皆なを前に置いて、自分の長い歴史を語り始める。巨万の富を積むに到るまでの経歴、遭遇した多くの艱難《かんなん》、一門の繁栄、隠居して以来時々試みる大旅行の話など、それに身振手|真似《まね》を加えて、楽しそうに話し聞かせる。服装《なりふり》なぞはすこしも気に留めないような、質素な風采《ふうさい》の人であるが、どこかに長者らしいところが具《そな》わっていた。
「復た、阿爺《おとっ》さんの十八番《おはこ》が始まった」と母も傍《そば》へ来た。
「しかし、阿爺さん」と三吉は老人の前に居て、「あの自分で御建築《おたて》に成った大きな家が、火事で焼けるのを御覧なすった時は――どんな心地《こころもち》がしましたか」
「どんな心地もしません」老人は若い者に一歩も譲らぬという調子で言った。「あの家は――焼けるだけの運を持って来たものです――皆な、そういう風に具わって来るものです」
 往時《むかし》は大きな漁業を営んで、氷の中にまで寝たというこの老人の豪健な気魄《きはく》と、絶念《あきらめ》の早さとは年を取っても失われなかった。女達の親しい笑声が起った。そこへ種夫と新吉が何か膳の上の物を狙《ねら》って来た。
「御行儀悪くしちゃ不可《いけない》よ」とお雪が子供を叱るように言った。
「種ちゃんか。新ちゃんも大きく成った。皆な好い児だネ」と老人は酔った眼で二人の孫の顔を眺めて、やがて酒の肴《さかな》を子供等の口へ入れてやった。
「コラ」と母は畳を叩《たた》く真似した。
 子供等は頬張《ほおば》りながら逃出して行った。下婢《おんな》が洋燈《ランプ》を運んで来た。最早酒も沢山だ、と老人が言った。食事を終る毎に、老人は膳に対して合掌した。
 その晩、残った仕事があると言って、三吉が二階へ上った頃は、雨の音がして来た。彼は下婢に吩咐《いいつ》けて階下《した》から残った洋酒を運ばせた。それを飲んで疲労《つかれ》を忘れようとした。
 お雪も幼い銀造を抱いて、一寸上って来た。
「どうだ――」と三吉はお雪に、「この酒は、欧羅巴《ヨーロッパ》の南で産《でき》る葡萄酒《ぶどうしゅ》だというが――非常に口あたりが好いぜ。女でも飲める。お前も一つ御相伴《おしょうばん》しないか」
「強いんじゃ有りませんか」とお雪は子供を膝《ひざ》に乗せて言った。
 雨戸の外では、蕭々《しとしと》降りそそぐ音が聞える。雨は霙《みぞれ》に変ったらしい、お雪は寒そうに震えて左の手で乳呑児《ちのみご》を抱き擁《かか》えながら、右の手に小さなコップを取上げた。酒は燈火《あかり》に映って、熟した果実《くだもの》よりも美しく見えた。
「オオ、強い」
 とお雪は無邪気に言ってみて、幾分か苦味のある酒を甘《うま》そうに口に含んだ。
「すこし頂いたら、もう私はこんなに紅く成っちゃった」
 と復たお雪が快活な調子で言って、熱《ほと》って来た頬を手で押えた。三吉は静かに妻を見た。


「相談したい。旅舎《やどや》の方へ来てくれ」こういう意味の葉書が森彦の許から来た。丁度名倉の老人は、学校の寄宿舎からお幾を呼寄せて、母と一緒に横浜見物をして帰って来た時で、長火鉢の側に煙管《きせる》を咬《くわ》えながら、しきりとその葉書を眺めた。
「とにかく、俺《おれ》は行って見て来る」
 こう三吉が妻に言って置いて、午後の三時頃に家を出た。
 森彦は旅舎の方で弟を待受けていた。二階には、相変らず熊の毛皮なぞを敷いて、窓に向いた方は書斎、火鉢《ひばち》の置いてあるところは応接間のように、一つの部屋が順序よく取片付けてあった。三吉が訪ねて行った時は、茶も入れるばかりに用意してあった。
「や」
 と森彦は弟を迎えた。
 何時《いつ》まで経っても兄弟は同じような気分で向い合った。兄の頭は余程|禿《は》げて来た。弟の鬢《びん》には白いやつが眼につくほど光った。未だそれでも、森彦はどこか子供のように三吉を思っていた。弟の前に菓子なぞを出して勧めて、
「今日お前を呼んだのは他でも無いが……実はエムの一件でネ」
 彼は切出した。
 森彦が言うには、今度という今度は話の持って行きどころに困った。日頃金主と頼む同志の友は病んでいる。一時融通の道が絶えた、ここを切開いて行かないことには多年の望を遂げることも叶《かな》わぬ……人は誰しも窮する時がある、それを思って一肌《ひとはだ》脱いでくれ、親類に迷惑を掛けるというは元より素志に背《そむ》くが、二百円ばかり欲《ほ》しい、是非頼む、弟に話した。
 三吉は困ったような顔をした。
「お前の収入が不定なことも、俺は知っている。しかしこの際どうにか成らんか。一時のことだ――人は大きく困らないで、小さく困るようなものだよ」と森彦は附添《つけた》して言った。
 しばらく三吉は考えていたが、やがて兄の勧める茶を飲んで、
「貴方のは人を助けて、自分で困ってる……今日《こんにち》までの遣方《やりかた》で行けば、こう成って来るのは自然の勢じゃ有りませんか。私はよくそう思うんですが、貴方にしろ、私にしろ、吾儕《われわれ》兄弟の一生……いろいろ人の知らない苦労をして……その骨折が何に成ったかというに、大抵身内のものの為に費されて了《しま》ったようなものです」
「今更そんなことを言っても仕方が無いぞ」
「いえ、私はそうじゃ無いと思います。稀《たま》にはこういうことも思って、心の持ち方を変えるが好いと思います」
「でも俺は差当り困る」
「いえ、差当ってのことで無く、根本的に――」
 森彦は弟の言うことを汲取《くみとり》かねるという風で、自分の部屋の内を見廻して、
「お前はそう言うが……俺は身内を助けるから、こうして他人から助けられている。碁で言えば、まあ捨石だ。俺が身内を助けるのは、捨石を打ってるんだ」
「どうでしょう、その碁の局面を全然《すっかり》変えて了ったら――」
「どうすれば可いと言うんだ、一体……」
「ですから、こう新生活を始めてみたらと思うんです――田舎《いなか》へでも御帰りに成ったらどうでしょう――私はその方が好さそうに思います。どこまでも貴方は、地方の人で可いじゃ有りませんか、小泉森彦で……それには、田舎へでも退いて、身《からだ》の閑《ひま》な時には耕す、果樹でも何でも植える、用のある時だけ東京へ出て来る、それだけでも貴方には好かろうと思うんです」
「何かい、お前は俺にこの旅舎を引揚げろと言うのかい」と言って、森彦は穴の開くほど弟の顔を眺めて、「そんなことが出来るものかよ。今ここで俺が田舎へでも帰って御覧……」
「面白いじゃ有りませんか」
「馬鹿言え。そんなことを俺が為《し》ようものなら、今日まで俺の力に成ってくれた人は、必《きっ》と驚いて死んで了う……」
 その時、三吉は久し振だから鰻飯《うなぎめし》を奢《おご》ると言出して、それを女中に命ずるようにと、兄に頼んだ。
「稀《たま》にはこういう話もしないと不可《いかん》」と三吉が尻《しり》を落付けた。「飯でも食って、それから復た話そうじゃ有りませんか」
 森彦は手を鳴らした。


 夕飯の後、三吉は兄が一生に遡《さかのぼ》って、今日に到るまでのことを委《くわ》しく聞こうとした。森彦が事業の主なものと言えば、八年の歳月を故郷の山林の為に費したことで有った。話がその事に成ると、森彦は感|極《きわ》まるという風で、日頃話好な人が好く語れない位であった。巣山《すやま》、明山《あきやま》の差別、無智な人民の盗伐などは、三吉も聞知っていることであるが、猶《なお》森彦は地方を代表して上京したそもそもから、終《しまい》には一文の手宛《てあて》をも受けず、すべて自弁でこの長い困難な交渉に当ったこと、その尽力の結果として、毎年一万円ずつの官金が故郷の町村へ配布されていること、多くの山林には五木《ごぼく》が植付けられつつあることなぞを、弟に語り聞かせた。
「あの時」と森彦は火鉢の上で両手を揉《も》んで、「Mさんが郷里《くに》の総代で俺の許《ところ》へ来て、小泉、貴様はこの事件の為に何程《いくら》費《つか》った、それを書いて出せ、と言うから、俺は総計で三万三千円に成ると書付を出した。その話は今だにそのままで、先方《さき》で出すとも言わなければ、俺も出せとも言わない……で、知事が気の毒に思って、政府の方から俺の為に金を下げるように、尽力してくれた。その高が六千円サ。ところがその金が郷里《くに》の銀行宛で来たというものだ。ホラお前も知ってる通り、正太の父親《おとっ》さんがああいう訳で、あの銀行に証文が入ってる、それに俺が判を捺《つ》いてる。そこで銀行の連中がこういう時だと思って、その六千円を差押えて了った……到頭俺は橋本の家の為に千五百円ばかり取られた――苛酷《ひど》いことをする……何の為にその金が下ったと思うんだ。一体誰の為に俺が精力を注いだと思うんだ……」
「何故《なぜ》、森彦さん、その時自分を投出《ほうりだ》して了わなかったものですか。とにかくこれだけの仕事をした、後は宜《よろ》しく頼む、と言ってサッサと旅舎を引揚げたら、郷里の方でも黙っては置かれますまい。その後仕末をする為に、今度は困って来た……何か儲《もうけ》仕事をしなけりゃ成らんと成って来た……」
「まあ、言ってみればそんなものだ。俺は金を取る為に、あの事業を為《し》たんでは無いで――儲ける? そんなことを念頭に置いて、誰があんな事業に八年も取付いていられるものか。まだ俺は覚えているが、夜遅く独りで二重橋の横を通って、俺の精神を歌に読んだことがある。あの時、自分でそれを吟じて見ると、涙がボロボロ零《こぼ》れて……」
 自分で自分を憐《あわれ》むような涙が、森彦の頬《ほお》を流れて来た。
「畢竟《つまり》、これは俺の性分から出たことだ」と復《ま》た兄は弟の方を見た。「一度始めた仕事は――それを成し遂げずには置かれない。俺の精神が郷里の人に知られなくとも、可い。俺はもっと大きく考えてる積りだ。どうせ郷里の人達には解らんと思ってるんだ。百年の後に成ったら、あるいは俺に感謝する者が出て来る……」
「森彦さん、そんなら貴方は何処《どこ》までもその精神で通すんですネ。自分の歩いて来た道を、何処までも見失わないようにするんですネ。しかし、後仕末はどうする。私はそれを貴方の為に心配します」
「だから、今度は儲けるサ。儲ける為に働くサ」
「ところが、それが貴方にはむずかしいと思います。貴方はやっぱり儲ける為に働ける人では無いと思います――」
「いや、そんなこ
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