しいような人が有るかネ。ホラ、黒縮緬《くろちりめん》の羽織を着て、一度お前の許《とこ》へ訪ねて来た人が有ったろう。あの人も見違えるほどお婆さんに成ったネ」
「多勢子供が有るんですもの……」とお雪は思出したような眼付をして、スウプを吸った。
「旦那に仕送りするなんて言って、亜米利加《アメリカ》へ稼《かせ》ぎに行った人もどうしたかサ。そうかと思えば、旦那と子供を置いて、独りで某処《どっか》へ行ってる人もある……妙な噂があるぜ、ああいう人がお前には好いのかネ」
「でも、あの人は感心な人です」
「そうかナア……」
 ボオイが皿を取替えて行った。しばらく夫婦は黙って食った。
「芝に居る人はどうなんかネ」と復《ま》た三吉が言った。「よくお前が遊びに行くじゃないか」
「あの人も旦那さんが弱くッて……平常《しょっちゅう》つまらない、つまらないッて、愚痴ばかしコボして……」
「何と言っても、女は長生するよ。直樹さんの家を御覧な、老祖母《おばあ》さんが一人残ってる。強い証拠だ。大きな、肥《ふと》った体躯《からだ》をした他《よそ》の内儀《おかみ》さんなぞが、女というものは弱いもんですなんて、そんなことを聞くと俺は可笑《おか》しく成っちまう……」
「でも、男の人の方が可羨《うらやま》しい。二度と女なんかに生れて来るもんじゃ有りません」
 夕日が輝いて来た。食堂の玻璃窓は一つ一つ深い絵のように見えた。屋外《そと》の町々は次第に薄暗い空気の中へ沈んで行った。やがて夫婦はこの食堂を下りた。物憂い生活に逆《さから》うような眼付をしながら、三吉は満腹した「妹」を連れて家の方へ帰って行った。

        八

 駒形《こまがた》から川について厩橋《うまやばし》の横を通り、あれから狭い裏町を折れ曲って、更に蔵前の通りへ出、長い並木路を三吉叔父の家まで、正太は非常に静かに歩いた。
 叔父は旅から帰って来た頃であった。正太は入口の庭のところに立って声を掛けた。
「叔父さん、御暇でしたら、すこし其辺《そこいら》を御歩きに成りませんか」
「御供しましょう――しかし、一寸《ちょっと》まあ上り給えナ」
 こう答えて、三吉は甥《おい》を下座敷へ通した。
 家には客もあった。お雪の父。この老人は遠く国から出掛けて、三吉の家で年越《としこし》した母と一緒に成りに来た。それほど長く母も逗留《とうりゅう》していた。
「や、毎度《いつも》どうも――」
 と名倉の老人は正太に挨拶《あいさつ》した。気象の壮《さか》んなこの人でも、寄る年波ばかりは争われなかった。髯《ひげ》は余程白かった。
 二階へ上って、叔父と一緒に茶を飲む頃は、正太は改まってもいなかった。旅から日に焼けて来た叔父の顔を眺《なが》めながら、
「時に、叔父さん、吾家《うち》の阿爺《おやじ》も……いよいよ満洲の方へ行ったそうです」
 こんなことを正太が言出したので、三吉は仕掛けた旅の話を止《や》めた。
「阿爺もネ――」と正太は声を低くして、「ホラ、長らく神戸に居ましたろう。何か神戸でも失敗したらしい。トドのツマリが満洲行と成ったんです……実叔父さんを頼って行ったものらしいんです……実は私も知らずにおりました。昨夕《ゆうべ》お倉叔母さんが見えまして――あの叔母さんも、お俊ちゃんはお嫁さんに成るし、寂しいもんですから、吾家《うち》で一晩泊りましてネ――その時、話が有りました。実叔父さんから手紙で阿爺のことを知らせて寄したそうです……」
 橋本の達雄と小泉の実とが満洲で落合ったということは、話す正太にも、聞く三吉にも、言うに言われぬ思を与えた。つくづく二人は二大家族の家長達の運命を思った。
 三吉は旅の話に移った。一週間ばかり家を離れたことを話した。山間の谿流《けいりゅう》の音にしばらく浮世を忘れた連の人達も、帰りの温泉宿では家の方の話で持切って、皆な妻子を案じながら帰って来たなどと話した。
 古い港の町、燈台の見える海、奇異《きたい》な女の風俗などのついた絵葉書が、そこへ取出された。三吉は思いついたように、微笑《えみ》を浮べながら、
「どうです、向島へ一枚出してやろうじゃ有りませんか」
 叔父の戯を、正太も興のあることに思った。彼は自分で小金の宛名《あてな》を認《したた》めて、裏の白い燈台の傍には「御存じより」と書いた。この「御存じより」が三吉を笑わせた。彼も何か書いた。
 三吉は立ちがけに、
「豊世さんが聞いたら苦い顔をすることだろうネ……」
 こう言って復《ま》た笑った。
 正太はヒドく元気が無かった。絵葉書を懐中《ふところ》にしながら階下《した》へ降りて、名倉の老人の側を通った。三吉も、勝手の方で働いているお雪に言葉を掛けて置いて、甥《おい》と一緒に歩きに出た。


 蔵つづきの間にある狭い路地を通り抜けて、二人は白壁の並んだところへ出た。そこは三吉がよく散歩に行く河岸《かし》である。石垣の下には神田川が流れている。繁華な町中に、こんな静かな場処もあるかと思われる位で、薄く曇った二月末の日が黒ずんだ水に映っていた。
 船から河岸へ通う物揚場の石段の上には、切石が袖垣《そでがき》のように積重ねてある。その端には鉄の鎖が繋《つな》いである。二人はこの石に倚凭《よりかか》った。満洲の方の噂《うわさ》が出た。三吉は思いやるように、
「両雄相会して、酒でも酌《く》むような時には――さぞ感慨に堪《た》えないことだろうナ」
 正太も思いやるような眼付をして、足許《あしもと》に遊んでいる鶏を見た。
 水に臨んだ柳並木は未だ枯々として、蕭散《しょうさん》な感じを与える。三吉はその枝の細く垂下った下を、あちこちと歩いた。やがて正太の方へ引返して来た。
「正太さん、君の仕事の方はどうなんですか――未だ遊びですか」
 こう言って、石の上に巻煙草を取出して、それを正太にも勧めた。
 正太は沮喪《そそう》したように笑いながら、「折角、好い口があって、その店へ入るばかりに成ったところが……広田が裏から行って私の邪魔をした。その方もオジャンでサ」
「そんな人の悪いことを為《す》るかねえ。手を携えてやった味方同志じゃないか」
「そりゃ、叔父さん、相場師の社会と来たら、実に酷《ひど》いものです。同輩を陥入《おとしい》れることなぞは、何とも思ってやしません。手の裏を反《かえ》すようなものです……苟《いやし》くも自己の利益に成るような事なら、何でも行《や》ります……自分が手柄をした時に、そいつを誇ること、他《ひと》の功名を嫉《ねた》むこと、それから他《ひと》の失敗を冷笑すること――親子の間柄でも容赦はない……相場師の神経質と嫉妬心《しっとしん》と来たら、恐らく芸術家以上でしょう。」
 正太は叔父の心当りの人で、もし兜町《かぶとちょう》に関係のある人が有らば、紹介してくれ、心掛けて置いてくれ、こんなことまで頼んで置いて、叔父と一緒に石段の傍を離れた。
 二人は河口の方へ静かに歩るいて行った。橋の畔《たもと》へ出ると、神田川の水が落合うところで、歌舞歓楽の区域の一角が水の方へ突出て居る。その辺は正太にとっての交際場裏で、よく客を連れては遊興にやって来たところだ。「橋本さん」と言えば、可成《かなり》顔が売れたものだ。「しばらく来ないな――」と正太は呟《つぶや》きながら、いくらか勾配のある道を河口の方へ下りた。
 隅田川《すみだがわ》が見える。白い、可憐《かれん》な都鳥が飛んでいる。川上の方に見える対岸の町々、煙突の煙なぞが、濁った空気を通して、ゴチャゴチャ二人の眼に映った。
「河の香《におい》からして変って来た。往時《むかし》の隅田川では無いネ」
 と三吉は眺め入った。
 岸について両国の方へ折れ曲って行くと、小さな公園の前あたりには、種々な人が往《い》ったり来たりしている。男と女の連が幾組となく二人の前を通る。


「正太さん、君は女を見てこの節どんな風に考えるネ」
「さあねえ――」
「何だか僕は……女を見ると苦しく成って来る」
 こう話し話し、三吉は正太と並んで、青物市場などのあたりから、浜町河岸の方へ歩いて行った。対岸には大きな煙突が立った。昔の深川風の町々は埋立地の陰に隠れた。正太は川向に住んだ時のことを思出すという風で、あの家へはよく榊《さかき》がやって来て、壮《さか》んに気焔《きえん》を吐いたことなどを言出した。
 その時、彼は岸に近く添うて歩きながら、
「榊君と言えば、先生も引込《ひっこみ》きりか……あれで、叔父さん、榊君の遊び方と私の遊び方とは全然《まるっきり》違うんです……先生の恋には、選択は無い。非常に物慾の壮《さか》んな人なんですネ……」
 電車が両国の方から恐しい響をさせてやって来たので、しばらく正太の話は途切れた。やがて、彼は微笑《ほほえ》んで、
「そこへ行くと、私は選む……一流でないものは、妓《おんな》でも話せないような気がする……私は交際《つきあい》で引手茶屋なぞへ行きましても、クダラナい女なぞを相手にして、騒ぐ気には成れません。隣室《となり》へ酒を出して置いて、私は独《ひと》りで寝転《ねころ》びながら本なぞを読みます。すると茶屋の姉さんが『橋本さん、貴方は妙な方ですネ』なんて……」
 二人は電車の音のしないところへ出た。その辺は直樹の家に近かった。昔時《むかし》、直樹の父親が、釣竿《つりざお》を手にしては二町ばかりある家の方からやって来て、その辺の柳並木の陰で、僅《わず》かの閑《ひま》を自分のものとして楽んだものであった。その人が腰掛けた石も、河岸の並木も大抵どうか成って了った。柳が二三本残った。三吉と正太は立って眺めた。潮が沖の方から溢《あふ》れて来る時で、船は多く川上の方へ向っていた。
「大橋の火見櫓《ひのみやぐら》だけは、それでも変らずに有りますネ」
 と正太が眺めながら言った。
 青い潮の反射は直に人を疲れさせた。三吉は長く立って見てもいられないような気がした。正太を誘って、復た歩き出した。
 大橋まで行って引返して来た頃、三吉は甥の萎《しお》れている様子を見て、
「正太さん、向島にはチョクチョクお逢《あ》いですか」と言って見た。
「サッパリ」
「へえ、そんなかネ」
「威勢の悪いこと夥《おびただ》しいんです。向島が私に、茶屋でばかり逢うのも冗費《ついえ》だから、家へ来いなんて……そうなると、先方《さき》の母親《おっか》さんが好い顔をしませんや。それに、芸者屋へ入り込むというやつは、あまり気の利《き》いたものじゃ有りませんからネ」
 と言いかけて、正太は対岸にある建物を叔父に指して見せて、
「彼処《あすこ》に会社が見えましょう。あの社長とかが向島を贔顧《ひいき》にしましてネ、箱根あたりへ連れてったそうです。根引《ねびき》の相談までするらしい……向島が、どうしましょうッて私に聞きますから、そんなことを俺《おれ》に相談する奴が有るもんか、どうでもお前の勝手にするサ、そう私が言ってやった……でも、向島も可哀相です……私の為には借金まで背負って、よく私に口説《くど》くんです、どうせ夫婦に成れる訳じゃなし……」
 正太は黙って了《しま》った。三吉も沈んだ眼付をして、しばらく物を言わずに歩いた。
「そうそう」と正太は思い付いたように笑い出した。「ホラ、此頃《こないだ》、雪の降った日が有りましたろう――ネ。あの翌日でサ。私が河蒸汽で吾妻橋《あずまばし》まで乗って、あそこで上ると、ヒョイと向島に遭遇《でっくわ》しました。半玉を二三人連れて……ちっとも顔を見せないが、どうしたか、この雪にはそれでも来るだろうと思って、どれ程待ったか知れない、今日はもうどんなことがあっても放さない、そう言って向島が私を捕《つかま》えてるじゃ有りませんか。今日は駄目だ、紙入には一文も入ってやしない、と私が言いますとネ、御金のことなんぞ言ってるんじゃ有りませんよ、私がどうかします、一緒にいらしって下さい、そう向島が言って置いて、チョイト皆さん手を貸して下さいッて、橋の畔《たもと》にいる半玉を呼んだというものです――到頭、あの日は、皆なで寄《よ》って群《
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