宜敷|御頼申《おたのもう》します」と詫《わ》びるように言った。


 お俊の結婚がある頃は、三吉の家では名倉の母を迎えた。大きな名倉の家族に取って無くてならない調和者はこの人であった。「橋本の姉さんと、名倉の母親さんとは、丁度両方の端に居る人だ」と三吉はよくお雪に言って聞かせるが、この母は多くの養子に対してばかりでなく、娘を嫁《かたづ》けた先の三吉に対しても細《こまか》いところまで行き届く。倦《う》まず立働く人で、お雪の傍に居ても直に眼鏡《めがね》を掛けて、孫の為に継物したり、娘の仕事を手伝ったりした。
 丁度、勉も商用で上京していた。勉の旅舎《やどや》はさ程離れてもいなかったし、それに名倉の母が逗留《とうりゅう》中なので、用達《ようたし》の序《ついで》に来ては三吉の家へ寄った。お雪が母親の周囲《まわり》には賑《にぎや》かな話声が絶えなかった。
 こういう中で、とかく三吉は沈み勝ちであった。賢い名倉の母に隠れるようにして、日の暮れる頃には町の方へ歩きに出た。何処《どこ》へ行こう。何を見よう。別に彼はそんな目的《めあて》があるでもなかった。唯、家から飛出して行って、路を通る往来《ゆきき》の人の中に交った。彼の足は電車の通う橋の方へ向き易《やす》かった。そこから、黄昏時《たそがれどき》の空気、チラチラ点く燈火《あかり》、並木道、ゴチャゴチャした町の建物なぞを眺めては帰って来た。家の近くには、人の集る寄席《よせ》がある。そこへも彼はよく独りで出掛けて行った。芸人が高座でする毎時《いつも》きまりきった色話だとか、仮白《こわいろ》だとかが、それほど彼の耳を慰めるでも無かった。彼は好きな巻煙草を燻《ふか》しながら、後の方の隠れた場所に座蒲団《ざぶとん》を敷いて、独りで黙って坐った。そして、知らない人の中に居て、言い難き悲哀《かなしみ》を忘れようとした。
 名倉の母は長く逗留していた。その間に、お雪は留守番を母に頼んで置いて、旧《むかし》の学校友達だの、豊世の家だのを訪問して歩いた。子持で、しかも年寄のない家に居ては、こういう機会がお雪には少なかったからで。三吉は妻の外出にすら、何とも言ってみようの無い不安な感じを抱《いだ》くように成った。
 ある晩、お雪は直樹の家を訪ねると言って出て行った。十時過ぐる頃まで帰って来なかった。妙に三吉は心配に成って来た。
「母親《おっか》さん――お雪はどうしたでしょう。こんなに遅くなっても、未だ帰りません。一寸私はそこいらまで行って見て来ます」
 こう名倉の母に言って置いて、三吉は直樹の家まで妻を迎えに行った。
 橋の畔《たもと》で彼はお雪の帰って来るのに行き逢った。
「父さん」
 と声を掛けられて、三吉はやや安心したように、
「心配したぜ。こんなに遅くまで話し込んでるやつが有るもんか。もうすこしで、俺は直樹さんの家まで行っちまうところだった」
 お雪は夫に寄添った。こうして二人ぎりで一緒に歩くということは、夫婦にはめったに無かった。三吉は妻を連れて、暗い道を静かに考深く歩いて帰った。


「――『一体お前はどういう積りで俺の許《ところ》へ嫁に来た』なんて、よく父さんがそんなことを私に言いますよ」
「へえ、父さんはそういう心でいるのかねえ」
 こうお雪と母親とで話しているところへ、勉が商人風の服装《なり》をして、表から入って来た。勉は大阪まで行って来たことから、東京での商用も弁じた、荷積も終った、明日は帰国の途に就《つ》くことなぞを話した。この人とお雪の妹との間には、最早《もう》種夫と同年の子供がある。
「父さん、※[#「※」は「ひとがしら+ナ」、164−15]がお別れに参りました。一寸逢ってやって下さい」
 と名倉の母が階梯《はしごだん》の下から呼んだ。
 三吉も談話《はなし》の仲間に入った。快活な世慣れた勉の口から、三吉は種々な商人の生活を聞くことを楽んだ。勉もよく話した。
 勉とお雪の愛。それを知って、三吉が二人を許してから、可成《かなり》長い月日が経つ。三吉は勉に交際《つきあ》ってみて、好くその気心も解った。以前のことは最早昔話のように思われるまでに成っていた。制《おさ》え難い不安の念につれて、幾年となく忘れられていた苦痛が復《ま》た起って来た。男同志さしむかいでいれば、三吉の方でも快心《こころよ》く話せる。そこへお雪が入って来ると、妙に彼は笑えなかった。
 勉は三吉の蒼《あお》ざめた顔を眺《なが》めて、
「しかし、小泉さんも御多忙《おいそが》しいでしょう」
「ええ、ええ、多忙《いそが》しい人です」と母は引取って、やがて三吉の方を見て、「父さん――貴方は御仕事の方を成すって下さい。何卒《どうぞ》お構いなく」
 名倉の母は茶を入れかえて、帰国するという養子にすすめ、茶の好きな娘の亭主にも飲ませた。
 間もなく勉は旅舎《やどや》の方へ戻って行った。三吉は勉の子供へと思って、土産《みやげ》にする物を町から買求めて来た。それを持って妻の前に立った。
「父さん、何物《なに》か――」と種夫は見つけて、父に縋《すが》りつく。
「お前のお土産《みや》じゃ無いよ。あっちの叔父さんに進《あ》げるんだよ」と三吉は子供に言い聞かせて、やがてお雪に、「これはお前に頼むぜ――俺のかわりに、後で勉さんの旅舎まで行って来ておくれ」
「そんなことをしなくッても宜う御座んすに」
 と母は顔を出して言った。
 夕食の後、三吉は二階に上って、机に対《むか》って見た。「馬鹿」と彼は自分で自分を叱った。「どうでも可いじゃないか、そんな事は……傍観者で沢山だ」こう復た自分に言って見た。不思議な本能の力は、しかし彼を唯《ただ》傍観させては置かなかった。何時《いつ》の間にか、彼はお雪が勉の旅舎に訪ねて行く時のことを想像した。彼女と勉との交換《とりかわ》す言葉を想像した。
「どうしたというんだ、一体俺は……」
 思い屈したような眼付をして、彼は部屋を見廻した。
 その時、「君は嫉《ねた》んだことが有るか……」こうある仏蘭西《フランス》人の物語の中にあった言葉を胸に浮べて、三吉は心に悲しく思った。男が嫉む――それが自分のことだと感じた時は、彼は自分の性質を恥じずにいられなかった。許した、許した、とは言ったものの、未だ真実《ほんとう》に勉やお雪を許してはいなかった、とも思って来た。
 階下《した》では、三人の子供も寝た。お雪は仕度が出来たと見えて階梯《はしごだん》のところへ来て声を掛けた。
「じゃ、父さん、一寸行って参ります」
 表の木戸を開けていそいそと出て行く妻の様子は、二階に居てよく知れた。三吉は熟《じっ》と耳を澄まして、お雪の下駄《げた》の音を聞いた。


 震える自分の身体《からだ》を見ながら、三吉は妻の帰りを待っていた。人が離縁を思うのもこういう時だろう。こんなことを悲しく考えて、終《しまい》に、今まで起したことも無い思想《かんがえ》に落ちて行った。僧侶《ぼうさん》のような禁欲の生活――寂しい寂しい生活――しかし、それより外に、養うべき妻子を養いながら、同時にこの苦痛を忘れるような方法は先ず見当らなかった。このまま家を寺院|精舎《しょうじゃ》と観る。出来ない相談とも思われなかった。三吉はその道を行こうと考え迷った。
 お雪は、勉が留守だったと言って、旅舎《やどや》の方から戻って来た。
 翌日《あくるひ》、勉からは、三吉とお雪の両名宛で、葉書が届いた。それには、子供への土産の礼を述べ、折角姉上が訪ねてくれたのに、不在で失礼した、これから郷里へ向う、母上にも宜しく、としてあった。
 十月は末に成って、三吉は長い風邪に侵された。名倉の母は未だ逗留していた。熱のある夫の為に、お雪は風薬だの、食物《くいもの》だのをこしらえた。それを二階に寝ている夫の枕許《まくらもと》へ運んだ。時には、子供が随《つ》いて上って来て、母の肩につかまったり、手を引いたりして戯れた。
「叔父さんは御風邪《おかぜ》ですか」
 正太が階梯《はしごだん》を上って来た。三吉は快《よ》くなりかけた時で、厚いドテラを引掛けたまま、床の上に起直った。
「正太さん、失礼します」と三吉は坊主枕を膝《ひざ》の上に乗せて言った。
「御無沙汰《ごぶさた》しておりますが、豊世さんも御変りは有りませんか」
 こうお雪は正太に尋ねて、元気づいた夫の笑声を聞きながら階下へ降りて行った。
「どうです、兜町の方は」と三吉は正太が言わない先に言出した。「何とか言いましたネ、広田サ……今度の店の方はどうですかネ」
 正太は寂しそうに笑った。「ええ、まあ暖簾《のれん》が掛けてあるというばかり。それに、叔父さん、店員は大抵去りましたし、あの店も小さいところへ移りました……塩瀬の没落以来、もう昔日の面影《おもかげ》はありません」
「でも、君は出てはいるんでしょう」
「この節は、遊びです。実は此頃《こないだ》、広田の店の為に、一策を立てて見ました。まあ、乗るか反《そ》るか、一つやッつけろと言うんで。あるところへ一日の中に九|度《たび》も車で駆付けさして、しかも雨のドシャ降りの日に、この店を活《い》かすなり殺すなりどうなりともしてくれ、そう言って私が転《ころ》がり込んで行った……宛然《まるで》ユスリですネ……どうしても先方《さき》で逢わない。すると、広田の店の方で、どうも橋本は凄《すご》いことをするなんて、そんな裏切者が出て来る……胆《きも》ッ玉の小さな男ばかり揃《そろ》ってるんでサ。あんなことで何が出来るもんですか。私も何卒《どうか》して、早く新しい立場を作らんけりゃ成らん……」
 正太の眼は物凄く輝いた。同時に、何となく萎《しお》れた色を見せた。やがて彼は袂《たもと》を探って、鉛の入った繭《まゆ》を取出した。仕事もなく、徒然《つれづれ》なまま、この繭を土台にして、慰みに子供の玩具《おもちゃ》を考案している。こんなことを叔父に語った。正太は紀文が遺《のこ》したという翫具《おもちゃ》の話なぞを引いて、さすがに風雅な人は面白いところが有る、とも言った。
 日の光は町々の屋根を掠《かす》めて、部屋の内へ射込んでいた。臥床《とこ》の上にツクネンとしている叔父の前で、正太はその鉛の入った繭を転がして見せた。


 夫は家を寺院と観念しても、妻はもとより尼では無かった。
 そればかりでは無い、若い時から落魄《らくはく》の苦痛までも嘗《な》めて来た三吉には、薬を飲ませ、物を食わせる人の情を思わずにいられなかった。彼が臥床《とこ》を離れる頃には、最早|還俗《げんぞく》して了った。彼の精神《こころ》は激しく動揺した。屈辱をも感じた。
 兄妹《きょうだい》の愛――そんな風に彼の思想《かんがえ》は変って行った。彼は自分の妹としてお雪のことを考えようと思った。
 十一月の空気のすこし暗い日のことであった。めずらしく三吉はお雪を連れて、町の方へ買物に出た。お雪は紺色のコートをちょっとしたヨソイキの着物の上に着て、手袋をはめながら夫に随《つ》いて行った。「まあ、父さんには無いことだ――御天気でも変りゃしないか」とお雪は眼で言わせた。
 ある町へ出た。途中で三吉は立ち留って、
「オイ、もうすこしシャンとしてお歩きよ……そんな可恥《はずか》しいような容子をして歩かないで。是方《こっち》がキマリが悪いや」
「だって、私には……」
 とお雪はすこし顔を紅めた。
 買物した後、三吉はお雪をある洋食屋の二階へ案内した。他に客も見えなかった。窓に近い食卓を選んで、三吉は椅子に腰掛けた。お雪も手袋を取って、よく働いた女らしい手を、白い食卓の布の上に置いた。
「ここですか、貴方の贔顧《ひいき》にしてる家は」
 とお雪は言って、花瓶《かびん》だの、鏡だの、古風な油絵の額だので飾ってある食堂の内を見廻した。彼女は又、玻璃窓《ガラスまど》の方へも立って行って、そこから見える町々の屋根などを眺めた。
 白い上衣《うわぎ》を着けたボオイが皿を運んで来た。三吉は匙《さじ》を取上げながら、妻の顔を眺めて、
「どうだネ。お前の旧《ふる》い友達で、誰か可羨《うらやま》
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