の煙が町の空に浮んだ。三吉は二階の縁側に出て、往来へ向いた簾《すだれ》の影から眺《なが》めた。
「……人妻などに成るものではないと、よく貴方から言って寄《よこ》したから、ひょっとかすると最早名倉さんの方へ帰っているかとも思うが……試みにこの手紙を進《あ》げる……」
こう三吉は心に繰返して見た。これはお雪が旧《ふる》い男の友達から、彼女へ宛《あ》てて寄した手紙の中の文句で。
言うに言われぬ失望が、ふとこの手紙を読んだ時から、三吉の胸に起って来た。長く艱難《かんなん》を共にしながら、これ程妻が自分を知らずにいたか、と彼は心にナサケなく思った。のみならず、全く心の持方の違った、気質も異なれば境遇も別な、こういう他人の手紙の中から、どう妻の心を読んだら可いか、第一それからして思い迷った。
ポンポン音がする。煙は風に送られて、柳の花のように垂下った。三吉はションボリ立って眺めていた。
「叔父さん――」
と声を掛けて、正太がズカズカ階梯《はしごだん》を上って来た。
急に三吉は沈鬱《ちんうつ》な心の底から浮び上ったように笑った。正太と一緒に坐って、兜町《かぶとちょう》の方の噂《うわさ》を始めた。
「塩瀬の店も駄目だそうだネ」と彼が言って見た。
「豊世からでも御聞きでしたか」と正太は叔父の方をキッと見て、「私が兜町へ入る頃から、塩瀬というものは実は駄目だったんです。外部を弥縫《びほう》していましたから、店に使われる者すら知らなかった。幹部へ入ってみて、それが解った。いよいよあの店も致命傷を負いました。銀行からは取付《とりつけ》を食う、得意は責めて来る――そう成ったら、実にミジメなものですよ。多分、あの店は、一旦閉めて、更に広田というものの名義で小さく始めることに成るでしょう。私なぞは、今までの行き掛り上、相談には乗ってやっていますが、殆《ほと》んど手を引いたようなものです」
すべての劃策《かくさく》は水泡に帰した、と正太は歎息した。彼は仲買人として、別に立つ方法を講じなければ成らない、とも言った。
「榊《さかき》君はどうしたろう」と三吉は思出したように。
「あの人も失敗して、郷里《くに》へ帰ったきりです。再挙を計る心は無さそうです」
こんな話をしていると、階下《した》では娘達の笑声が起った。二人は一緒に階梯を下りた。お俊、お延、お絹を始め、お雪が末の妹のお幾も集って来た。娘達の中には、縁先に来て、涼しそうな鳴海絞《なるみしぼり》を着た種夫や新吉に、金魚を見せているものも有った。
「お雪、皆なで写真を撮《と》ろうじゃないか。お前達は子供を連れて先に写してお出。俺《おれ》は正太さんと二人で写す」
と三吉は妻を呼んで言った。お雪は嬉しそうに微笑んだ。往来にはゾロゾロ人の通る足音がした。
夕方から、表の木戸を開けはらって、風通しの好い簾の影で、一同揃って冷麦を食った。
「世が世なら、伝馬《てんま》の一艘も買切って押出すのにナア」
と正太は白い扇子《せんす》をバチバチ言わせながら、叔父と一緒に門の外へ出て見た。
「お俊ちゃん達もいらっしゃいな」
お雪は娘達を呼んで、豊世と一緒に入口の庭へ下りた。町中のことで、往来の片隅《かたすみ》に涼台を持出して、あるものは腰掛け、あるものは立って通る人々の風俗を眺《なが》めた。
「お俊ちゃんは島田に結っていらっしゃれば可いのに。好く似合いますわ」と豊世はお俊の方を見た。
「此頃《こないだ》もネ、お俊姉さんのは催促髷《さいそくまげ》だなんて、皆なでサンザン冷かしました。ですから姉さんは結っていらっしゃらないんですよ」
こうお絹が言出したので、娘達は皆な笑った。
「絹ちゃんは感心に、田舎訛《いなかなまり》が出ないこと」と豊世は言って見た。
「郷里《くに》で稽古《けいこ》して来たんですもの」とお絹はすこし下を向いた。
「延ちゃんは、もうすっかり東京言葉だ」とお雪も娘達の発達に驚くという眼付をした。
群集は町を隔てて潮のように押寄せて来ている。花火の音と一緒に、狂喜する喚声《さけびごえ》が遠く近く響き渡る。正太と三吉は、河岸を一廻りして戻って来た。娘達は揃《そろ》って出掛けようとした。
「ハイカラねえ」
とお延は、町を通る若い娘を叔父に指してみせて置いて、連《つれ》の後を追った。
お雪は子供を見に家の内へ入ったが、やがて茶を入れて涼台のところへ持って来た。豊世も煙草盆を運んだ。
「お俊ちゃんから今日話がありましたが」とお雪は夫の傍へ寄って、「お祝の時には、私の帯を貸して下さいッて」
「帯は自分のが有るじゃないか」と三吉が言った。
「御婚礼の時の着物に似合わないんですッて」
「じゃあ、貸して進《あ》げるサ」
こんな内輪話をしている叔母を誘って、豊世は河岸の方へ歩きに出掛けた。涼台のところには、正太と三吉と二人残った。
三吉は笑いながら「向島もどうしましたかネ」
と小金の噂なぞをして見た。二人の間には、向島で意味が通じた。
「豊世のやつも、気ばかり揉《も》んで――弱っちまう」と正太は歎息するように。
「いっそ、向島に逢わせてみたらどうです」と三吉は戯れて言った。
「いえ、叔父さん、既に最早逢わせてみたんです。駄目、駄目、それほど豊世がサバケていないんですからネ。土手のある待合でした。そこへ豊世を連れて行くと、向島も来て変に思ったと見えて、容易に顔を出しませんでした。あそこで、豊世が一つ笑ってくれると可いんでサ……」
「そりゃ、君、笑えないサ。女同志だもの」
「すると、さすがは商売人だ。人が悪いや。帰りに向島が車を二台あつらえて、わざわざ二人乗の方へ豊世と私を乗せて、自分は一人乗でそこいらまで送って来ました……後で、豊世の言草が好いじゃ有りませんか、『もっと私は凄《すご》い女かなんかと思っていた、貴方はあんなのが好いんですか』ッて……しかしネ、叔父さん、色に持つなら私はああいう温順《おとな》しいのを選びますよ。そのかわり、取巻にはどんな凄いんでも……」
紅や薄紫の花火の色が、夜の空に映ったり消えたりした。二人が腰掛けている涼台から、その光を望むことが出来た。三吉は、多勢子供を失ってから、気に成るという風で、時々自分の家の内を覗《のぞ》きに行って、それから復《ま》た正太の話を聞きに来た。
どうかすると、三吉の心は空の方へ行った。半ば独語《ひとりごと》のように、
「家というものはどうしてこう煩《わずらわ》しいもんでしょう。僕のところなぞは、もうすこしウマく行きそうなものだがナア……」
こう正太に話して聞かせた。
そのうちに、豊世やお雪は手を引き合いながら、明るい軒燈《ガス》の影を帰って来た。二人とも下町風の髪を結って、丁度背も同じ程の高さである。お雪は三十を一つ越し、豊世もやがて三十に近かった。お雪が堅肥りのした肩や、乳の張った胸のあたりに比べると、豊世の方はやや痩《や》せていたが、それでも体格の女らしく発達したことは、二人ともよく似ていた。二人は話し話し涼台の方へ近《ちかづ》いた。
間もなく娘達も手を引いて帰って来た。私語《ささや》く声、軽く笑う声が、そこにも、ここにも起った。知らない男や女は幾群となく皆なの側を通過ぎた。
仕掛花火も終った頃、三吉は正太と連立って、もう一遍橋の畔《たもと》まで出て見た。提灯《ちょうちん》や万燈《まんどう》を点《つ》けて帰って行く舟を見ると、中には兜町方面の店印をも数えることが出来る。急に正太は意気の銷沈《しょうちん》を感じた。叔父と一緒に引返した。
遅く成ったので、花火を見に来た娘達は分れて泊ることに成った。お俊とお絹は正太夫婦に連れられて行った。三吉の家には、お延、お幾が残った。
町中の夏の夜。郊外では四月《よつき》五月《いつつき》も釣る蚊帳《かや》が、ここでは二十日か、三十日位しか要《い》らない。でも、毎年のように蚊が増《ふ》えた。その晩も皆な蚊帳の内へ入った。
ふと、三吉が眼を覚ました頃は、家のものは寝静まっていた。蚊の声がウルサく耳について、しばらく彼は眠られなかった。枕頭《まくらもと》の方では、乳臭い子供の香《におい》をたずねると見え、幾羽となく集って来ていた。蚊帳の内にも飛んでいた。三吉は床を離れた。蝋燭《ろうそく》とマッチを探って来て、火を点《とも》した。妻子《つまこ》はいずれもよく寝ていた。緑色の麻蚊帳が明るく映っても、目を覚まして声を掛けるものは無かった。
「種ちゃんはあんなところへ行って、転《ころ》がってる――仕様が無いナア、皆な寝相《ねぞう》が悪くて」
こう三吉は、叱《しか》るように言って見て、あちこちと子供の上を跨《また》いで歩いた。
蚊を焼きながら、三吉はお雪の枕許《まくらもと》へ来た。まだお雪は知らずに寝ていた。見ると、何等《なん》の記憶に苦むということも無いような顔付をして、乳呑児の頭の方へ無心に母らしい手を延ばしながら、静かに横に成っていた。三吉は燭台《しょくだい》を妻の寝顔に寄せた。そして、お雪の心を読もうとするような眼付をして、猶《なお》よく見た。何物《なんに》も変ったものが蝋燭の光に映らなかった……深い眠はお雪の身体を支配しているらしかった。顔面《かお》のどの部分でも、眠っていないところは無かった。白い腕までも夢を見ていた。
蚊帳の外まで燭台を持って廻った後、三吉は火を吹き消した。復た自分の床に入って、枕に就《つ》いた。
翌朝《よくあさ》は、お延やお幾が種夫を間に入れて、三吉夫婦と一緒に食事した。新吉もその傍で、下婢《おんな》に食べさせて貰った。
「いやです、父さん――人の顔をジロジロ見て」とお雪は食いながら言った。
「見たって可いじゃないか」と三吉は串談《じょうだん》らしく。
「そんなに見なくたって宜う御座んす」
とお雪が言ったので、娘達はクスクス笑った。
「どうだ、昨夜俺は起きて、お前達の知らない時に蚊を焼いたが……皆なよく寝ていた」と言って、三吉は戯れるような口調で、「叔父さんは延の寝言まで聞いちゃった」
「嘘《うそ》、叔父さん、私が寝言なんか言うもんですか」とお延が笑う。
「私は、兄さんが蚊を焼きにいらしったのを知ってたけれど……黙って寝た振をしていた」とお幾も笑った。
間もなく三吉は独りで自分の部屋へ上って行った。
二階――そこは三吉が山から持って来た机の置いてあるところで。そこから坐りながら町々の屋根や、水に近い空なぞを望むことが出来る。そこから階下《した》に居る人達の声を手に取るように聞くことも出来る。彼が仕事で夢中に成っている時は、夜遅くまで洋燈《ランプ》が点いて、近所の家々で寝て了《しま》う頃にも、未だそこからは燈火《あかり》が泄《も》れていることもある。
階下から聞える声は、とは言え三吉の心を静かにしては置かなかった。男と女で争うなぞはクダラナいことだ、こう思いながら、知らず知らず彼はその中へ捲込《まきこ》まれて行った。何時《いつ》まで経ったら、夫と妻の心の顔が真実《ほんとう》に合う日が有るだろう。そんなことを考えるさえ、彼は厭《いと》わしそうな眼付をした。
夫としての三吉は、妻の変らない保護者で有った。しかし好い話相手では無かった。妙に、彼はお雪の前に長く坐っていられなかった。すこし長く妻と話をして居ると、もう彼は退屈して了った……こういう性分の三吉に比べると、もっと心易い人が世の中にはある。そういう人が階下へ来て、皆なを笑わせることも有る。それを三吉は二階から聞く度《たび》に、侘《わび》しい心を起した。どうかすると、彼は階梯《はしごだん》を馳《か》け降りるようにして、そういう人の手から自分の子供を抱取ることも有った。
「人の細君をつかまえて、雪さんなどと平気で書いて寄す男もある」
と三吉は思ってみた。そういう人が妻には親切な面白い人のように言われても、その無邪気さを三吉はどうすることも出来なかった。
すこしの言葉の争いから、お雪は鬱《ふさ》いで了うことが多かった。すると、三吉は二階から下りて、時には妻の前に手を突いて、「何卒《どうか》まあ
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