達雄との会見――今にそれを姉が言出すか言出すかと、三吉は心に思っていた。お種は、弟の方で待受けたようなことを何事《なんに》も言出さずじまいに、郷里の方の変遷《うつりかわり》などをいろいろと語り聞かせた後で、一緒に階下《した》へ降りた。
お雪は眼の覚《さ》めた銀造を抱き擁《かか》えて、
「へえ、伯母ちゃん、銀ちゃんを見て下さい」
「オオ、温順《おとな》だそうな。白い前掛《まいか》を掛けて――好い児だ、好い児だ」とお種は孫でもアヤすように言った。
「この通りの子持で御座いますから、いずれ私は夜分にでも伺います」
「お雪さん、御待ち申していますよ。お仙にも逢《あ》ってやって下さい」
それから一週間ばかり、お種は逗留《とうりゅう》した。そこそこに帰郷の仕度を始めたと聞いて、親戚はかわるがわる正太の家を訪ねた。三吉も別れかたがた出掛けて行った時は、お俊、お延なぞの娘達が集って来ていた。森彦の二番目の娘で、遊学のために上京したお絹も来ていた。
「三吉、御免なさいよ。今髪を結って了いますから」
とお種は階梯《はしごだん》の下に近く鏡台を置いて、その前に坐りながら挨拶《あいさつ》した。お種の後には、白い前垂を掛けた女髪結が立って、しきりと身体を動かしていた。
「叔父さん、私も母親さんの御供をして、一寸|郷里《くに》まで行って参ります。実は行く前に、御相談したいことも有りますし、私の方から今伺おうと思っていたところなんです」
正太は叔父の顔を見て、丁度好いところへ来てくれたという風に言った。
三吉、正太の二人は連立って、河の見える二階へ上った。窓の扉《と》だけ赤く塗った河蒸汽が、音波を刻んで眺望の中に入って来た。やがて川上の方へ通過ぎた。
三吉は薄く濁った水を眺めて、
「姉さんも、何事《なんに》も言出さずに帰って行くものと見えるネ……時に、正太さん、相談したいというのは何ですか」
と叔父に言われて、しばらく正太は切出しかねていた。金の話であった。郷里《くに》に居る正太の知人で、叔父の請判《うけはん》があらば、貸出しそうなものが有る。商法の資本《もとで》として、二千円ばかり借りて来たい。迷惑は掛けないから、判だけ捺《お》してくれ。
「実は――この話は、母親さんからこうこういう人があると、聞出したのが元なんです」と正太は折入って三吉に頼んだ。
お種は髪が出来て上って来た。
「三吉――もう俺も親類廻りは済ましたし、是頃《こないだ》の晩のようなことが有ると可恐《おそろ》しいで、サッサと郷里《くに》の方へ帰るわい」
こう話しているところへ、お仙も来て、名残《なごり》惜しそうに叔父の方を見たり、二階から見える町々の光景《さま》などを眺めたりした。
「なあ、お仙」とお種は娘の方を見て、「三吉叔父さんにも御目に掛ったし、これでお前も気が済んだずら……早く仕度をして帰るまいかや」
「ええ、田舎《いなか》の方が安気《あんき》で好い。兄さんや姉さんの傍に居られるだけは、東京も好いけれど――」とお仙は皆なの顔を見比べながら言った。
三吉が別れを告げて、この家を出たのは町に燈火《あかり》の点《つ》き始める頃であった。薄暗く成って、復た三吉は引返して来た。つづいて森彦も入って来た。
「オヤ、三吉叔父さん、森彦叔父さんも御一緒に……」
と豊世は迎えに出た。二人の叔父は用事ありげに下座敷へ通った。
「叔父さん達は御風呂は如何《いかが》ですか」と豊世は款待顔《もてなしがお》に、「今日は、郷里《くに》へ帰る人の御馳走に立てましたところですが――」
「それじゃ、とにかく一ぱい入るとしよう」と森彦が言った。
皆な出発するという前の晩のことで、何となく家の内は混雑《ごたごた》していた。
食事を済ました後、叔父達は二階の縁側に近く居て、風呂から出る正太を待受けた。屋外《そと》は最早《もう》暗かった。お仙は煙草盆の火を見に上って来た。
森彦は胡坐《あぐら》にやりながら、
「お仙、兄さんは未だお風呂かネ」
「いえ、もう上ったずら……これから私達もよばれるところだ」
こう言って、お仙は一寸縁側へ出た。沈んだ空気は対岸の町々を遠くして見せた。河は湖水のように静かであった。お仙は欄《てすり》のところから夜の空を眺めて見て、やがて階下《した》へ引返して行った。
そのうちに正太が煙草入を手にして上って来た。チラと彼の眼は光った。
森彦は肥った身体を正太の方へ向けたが、顔はむしろ三吉の方へ向けて、
「いや、他《ほか》でも無いがネ――俺は途中で三吉と行き逢って、彼《あれ》がお前から相談を受けたという話を聞いた。そいつは考え物だぞ、三吉も一緒に来い、俺が行って正太によく話してやる。そう言って彼を引張って来たところだ」
「ああ、そのことですか」と正太は苦笑した。
三吉は河の方を見ていた。森彦は正太を諭《さと》すように、みすみす三吉に迷惑の掛るものを黙って観ている訳には行かぬ、証文に判をつけ――実も達雄も皆な同じ行き方で親類を倒している――こう腕まくりで言出した。
「そういうことなら、叔父さん、この話は断然止めましょう」
と正太はキッパリ答えた。
お種が階下《した》から煙草盆を提《さ》げて談話《はなし》の仲間入に来た頃は、森彦の声は高かった。ウンと言わなければ気の済まないのがこの叔父の癖で、お種や正太を前に置きながら、盛んに橋本|父子《おやこ》を攻撃し始めた。叔父の目から見ると、正太の相場学なぞは未だ未だ幼稚なもので、仲買人のナの字にも行っておらぬ。こんなことが森彦の口を衝《つ》いて出て来た。
その時、豊世もお仙と一緒に、浴衣《ゆかた》でやって来た。叔父の猛烈な語勢が、階下《した》にいる老婆《ばあさん》はおろか、どうかすると隣近所までも聞えそうなので、心の好いお仙は沈着《おちつ》いていられないという風であった。母の傍へ行ったり、兄の顔を眺めたりして、ハラハラしていた。
「森彦――お前の言うことは、好く解った……好く解った……正太も、叔父さんの言うことをよく聞いて置いて、橋本の家を興してくれるが可いぞや……ええ、ええ、それを忘れるようなことじゃ、申訳が無いで……」
こうお種は言いかけたが、興奮のあまり声が咽喉《のど》へ乾干《ひから》び付いたように成った。豊世も姑《しゅうとめ》の側に考深い眼付をして、女持の煙管《きせる》で煙草を燻《ふか》していた。
「今までの家風は、皆なが言うことを言わなさ過ぎたと思いますわ」と豊世は顔を揚げて、「母親さん、これから皆なでもっと言うことにしようじゃ有りませんか」
軽い、無邪気な、お仙の笑声が起った。
漸《ようや》く、一同、笑って話すことが出来るように成った。森彦も愛嬌《あいきょう》のある微笑《えみ》を見せて、
「なんでも人間は信用が無くちゃ駄目だ。俺なんかも、十年一日のごとしで、志ばかり徒《いたずら》に大きいようなものだが、信用を失わないように心掛けているんで持ってる……」
「そうサ。お前は酒も飲まず、煙草も服《の》まず――そこは一寸|真似《まね》の出来ないところだ」とお種が言った。
「これで何だぞい、俺は旅舎生活《やどやぐらし》を始めてから、唯の二度しか引手茶屋へも遊びに行ったことが無い。それも交際《つきあい》で止《や》むを得ない時ばかり。一度はMさんの出て来た時、一度は――」
「二度と断ったところはよかった」と三吉が笑出した。
「いえ、正直な話サ」
森彦は三吉を睨《にら》むようにして言ったが、終《しまい》には自分でも可笑しく成ったと見えて、反返《そりかえ》って笑った。
「姉さん」と森彦はお種の方を見て、「俺はこういう話を覚えているが――貴方達《あなたがた》が未だ東京に家を持ってる時分、お仙が二階から転がり落ちて、ヒドク頭を打った――それを貴方達は知らずに寝ていたということだが――」
「そんなことは、虚言《うそ》だ」とお種は腹立たしげに打消した。
「とにかく、今夜のような話は、為る方が可いネ」と三吉が正太に言った。
「稀《たま》にはこういう話も聞かんと不可《いかん》」正太も元気づいた。
お種は弟を顧みて、「三吉、お前は私のことを……旦那《だんな》に逢って見る積りで、今度出て来たんだろうなんて、そう言ったそうなネ……」と他事《ひとごと》のように言った。
「まあそんな話が出たことも有りました」と三吉は微笑んで、「しかし、姉さん、子のことも考えんけりゃ成りませんからネ」
「ええ、ええ、そこどこじゃない」とお種は力を入れた。
しばらく森彦は姉の横顔を眺めたが、やがて、
「この婆《ばば》サも、これで未だ色気が有る」
と急所を衝《つ》くように言い放った。盛んな笑声が起った。一同の視線はお種の方へ集った。
「ウン有る――有る、有る」
お種は口を尖《とが》らせて、激した調子で答えた。そして、ブルブル身体を震るわせた。
「風向が変って来ましたぜ」と三吉は戯れるように。
「今度は俺の方へお櫃《はち》が廻って来たそうな」とお種も笑い砕けた。
お仙は手を振って笑った。
「しかし、串談はとにかく」とお種は浴衣の襟を掻合せて、「こう皆な集ることも、めったに無い。どうだ、豊世、お前も何か言うことがあらば――叔父さん達の前で言えや」
「母親さん、私は……別に言うことも有りません」
と答えて、豊世は胸を押えながら、俯向《うつむ》いて了った。
叔父達が夏羽織を引掛けて、起《た》ち上った頃は、対岸の灯も幽《かす》かに成った。混雑した心地《こころもち》で、一同は互に別れを告げた。
「いや、危いところ――」
と森彦は正太の家を離れてから、三吉に言った。
七
昼間から花火の音がする。
両国に近い三吉の家では、毎年川開の時の例で、親類の娘達を待受けた。豊世も、その日約束して置いて、誰よりも先にお雪のところへ遊びに来ていた。
「よくそれでも、叔母《おば》さんは子供の世話を成さいますねえ」
「私だって心から子供が好きじゃ有りません」
叔母のような家庭的な人の口から、意外な答を聞いたという面持で、豊世は母衣蚊屋《ほろがや》の内にスヤスヤ眠っている乳呑児《ちのみご》の方を眺めた。そこへ二番目の新吉を背負《おぶ》った下婢《おんな》に連れられて、種夫が表の方から入って来た。
「種ちゃんも、新ちゃんも、オベベを着更えましょう。今に姉さん方がいらっしゃるよ」とお雪が言った。
「どれ、種ちゃんは叔母さんの方へいらっしゃい」と豊世は種夫に手招きして見せて、「豊世叔母さんが好くして進《あ》げましょうネ」
幼い兄弟は揃《そろ》いの新しい浴衣《ゆかた》に着更えた。丁度、三吉は町まで用達《ようたし》に出掛けた時で、子供に金魚を買って戻って来た。
「正太さんは?」
三吉は豊世の顔を見て尋ねた。お種を送りながら郷里《くに》の方へ行った正太も、最早引返して来ていた。
「宅は後から伺いますって」と豊世は微笑《ほほえ》んで、「どうして、宅がこんな日に静止《じっと》していられるもんですか」
「今、豊世さんから伺ったんですが」とお雪は夫に、「塩瀬の御店もイケなく成ったそうです」
「叔父さんは未だ御聞きに成りませんか」と豊世が言った。
「いよいよ駄目なんですか。好い店のようでしたがナ。そいつは正太さんも気の毒だ」
「真実《ほんと》に相場師ばかりは、明日のことがどう成るか解りませんネ。川向に居ます時分――あの頃のことを思うと、百円位のお金は平素《しょっちゅう》紙入の中に入っていたんですがねえ」と言って、豊世は萎《しお》れて、「そう言えば、森彦叔父さんにああ言って頂いたんで、宜う御座んしたよ。あのお金を借りて持っていようものなら、それこそ――今頃はどう成っているか解りません」
三吉はお雪と顔を見合せた。
「私もツマリませんから、花火でも見て遊びますわ」と豊世は嘆息した。
お雪は着物を着更えた。豊世は叔父から巻煙草を分けて貰って、眼を細くしながらそれを吸った。三吉も煙草を燻《ふか》していたが、やがて独《ひと》りで二階へ上って行った。
黄色い花火
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