私の処を聞いたぞなし。私は知らん顔していた。あんまり煩《うるさ》いから、木曾《きそ》だってそう言ってやった」
「木曾はよかった」と三吉が笑う。
「先方《さき》の人も変に思ったでしょうねえ」と豊世は妹の顔を眺めて、「お仙ちゃんは、自分じゃそれほど可畏《こわ》いとも思っていなかったようですね」
お仙はきれぎれに思出すという顔付で、「ハンケチの包を取られては大変だと思ったから――あの中には姉さんに買って頂いた白粉《おしろい》が入っていたで――私はこうシッカリと持っていた。男の人が、それを袂《たもと》へ入れろ入れろと言うじゃないかなし。私が入れた。そうすると、この袂を捕《つかま》えて、どうしても放さなかった……」
「アア、白粉を取られるとばかり思ったナ」と正太が言った。
「ええ」とお仙は微笑《えみ》を浮べて、「それから方々暗い処を歩いて、終《しまい》に木のある明るい処へ出た。草臥《くたびれ》たろうから休めッて、男の人が言うから、私も腰を掛けて休んだ……」
「して見ると、やっぱり公園の内へ入ったんだ。あれほど僕等が探したがナア」と三吉は言ってみた。
お仙は言葉を続けて、「煙草を服《の》まないかッて、その人が私にくれた。私は一服しか貰って服まなかった。夫婦に成れなんて言ったぞなし――ええ、ええ、そんな馬鹿なことを」
「よかった、よかった――夫婦なぞに成らなくって、よかった」
こうお種が言ったので、皆な笑った。お仙も一緒に成って笑い転《ころ》げた。
「皆な二階へ行って休むことにしましょう。正太も仕事のある人だから、すこし休むが可い――さアさ、皆な行って寝ましょう」
とお種は先に立って行った。
「皆様の御床はもう展《の》べて御座います」と老婆も言葉を添えた。
一同は二階へ上って寝る仕度をした。三吉は寝られなかった。彼は一旦《いったん》入った臥床《とこ》から復た這出《はいだ》して、蚊帳《かや》の外で煙草を燻《ふか》し始めた。お仙も眠れないと見えて起きて来た。豊世も起きて来た。三人は縁側のところへ煙草盆を持出した。しまいには、お種も我慢が仕切れなく成ったと見え、白い寝衣のまま蚊帳の内から出て来た。
「正太さんはよく寝ましたネ」と三吉は蚊帳の外から覗《のぞ》いて見る。
「これ、そうっとして置くが可い。明日《あした》は大分|多忙《いそが》しい人だそうだから――」とお種は声を低くして言った。
その時、豊世は起《た》って行って、水に近い雨戸を開けかけた。
「叔父さん、一枚開けましょう。もう夜が明けるかも知れません」
一夜の出来事は、それに遭遇《であ》った人々に取って忘られなかった。折角上京したお種も、お仙を連れての町あるきは可恐《おそろ》しく思われて来た。河の見える家に逗留《とうりゅう》して、皆なで一緒に時を送るということが、何よりお種|母子《おやこ》には楽しかった。
八月に入って、正太も家のものを相手に暮すような日があった。兄夫婦や妹の間に起る笑声は、過去った楽しい日のことをお種に想《おも》い起させた。下座敷の玻璃障子の外には、僅《わず》かばかりの石垣の上を丹精して、青いものが植えてある。お種は、郷里《くに》に居て庭の植木を愛するように、その草花の手入をしたり、綺麗に掃除したりした。
お種は草箒《くさぼうき》を手にして、石段の下へも降りて行った。余念なく石垣の草むしりをしていると、丁度そこへ三吉が路地の方から廻って訪ねて来た。お種はそれとも気がつかず、往来に腰を延ばして、自分の草むしりした跡を心地好さそうに眺めていた。三吉は姉の傍まで来た。まだお種は知らなかった。その時、三吉は両手を延ばして、背後《うしろ》から静かに姉の目を隠した。
この戯は、寧《むし》ろお種をビックリさせた。彼女は右の手に草箒を振りながら、叫んだ。何事かと、正太や豊世は顔を出した。三吉は笑いながら姉の前に立っていた。
「お前さんか――俺《おれ》は真実《ほんとう》に、誰かと思ったぞや」
とお種も笑って、「まあ、お入り」と言いながら、弟と一緒に石段を上った。
「姉さん」と三吉は家へ入ってから言った。「一寸御使にやって来たんです。明日は私の家で御待申していますから、何卒《どうか》御話に入来《いら》しって下さい」
「それは難有《ありがと》う。私もお前さんの許《とこ》の子供を見に行かずと思っていた。それに、久し振でお雪さんにも御目に掛りたいし……」
こういうお種の顔色には、前の晩に見たより焦心《あせ》っているようなところが少なかった。その沈んだ調子が、反《かえ》って三吉を安心させた。
正太と二人きりに成った時、三吉は姉の様子を尋ねて見た。
「母親さんも考えて来たようです」と正太は前の夜の可恐《おそろ》しかったことを目で言わせた。
「なにしろ、君、出て来る早々ああいう目に遭遇《でっくわ》したんだからネ……実際あの晩はエラかったよ……」
「私なぞは、叔父さん、すくなくも十年|寿命《じゅみょう》が縮みました」
「ホラ、君と二人で最後に公園の内を探って、広小路へ出て来ると、あの繁華な場処に人一人通らずサ……あの時、君は下谷の方面を探り給え、僕は浅草橋通りをもう一遍捜してみようッて言って、二人で帽子を脱《と》って別れましたろう――あの時は、君、何とも言えない感じがしたネ」
「そうそう、一つ踏外すと皆な一緒にどうなるかと思うような……こりゃあウカウカしちゃあいられない、そう思って、私は上野の方へ独《ひと》りで歩いて行きました」
水を打ったような深夜の道路、互に遠ざかりながら聞いた幽《かす》かな足音――未だそれは二人の眼にあり耳にあった。
女達が集って来た。親類の話が始まった。遠く満洲の方に居る実のことが出るにつけても、お種は夫の達雄を思出すらしかった。お俊《しゅん》の結婚も何時あるかなどと噂《うわさ》した後で、三吉は辞して行った。
お仙を残して置いて、お種は独《ひと》りで弟の家族に逢いに行った。
三吉の家では、お雪が子供に着物を着更えさせるやら、茶道具を取り出すやらして、姉を待受けていた。気の置けない男の客と違い、殊《こと》に親類中一番|年長《としうえ》のお種のことで、何となくお雪は改まった面持で迎えた。弟の家内の顔を見ると、お種は先ず亡くなったお房やお菊やお繁のことを言出した。
三吉は姉の側に坐って、「姉さん、御馴染《おなじみ》の子供は一人も居なくなりました」
「そうサ――」とお種も考深く。
「種ちゃん、橋本の伯母さんに御辞儀をしないか」とお雪が呼んだ。
「種ちゃんはもう御馴染に成ったねえ。御預りのワンワンも伯母さんが持って来ましたよ」
「姉さん、これが新ちゃんです」と三吉は、漸《ようや》く匍《は》って歩く位な、次男の新吉を抱寄せて見せる。
「オオ、新ちゃんですか」とお種は顔を寄せて、「ほんに、この児は壮健《じょうぶ》そうな顔をしてる。眼のクリクリしたところなぞは、三吉の幼少《ちいさ》い時に彷彿《そっくり》だぞや……どれ、皆な好い児だで、伯母さんが御土産《おみや》を出さずか」
子供は、伯母から貰った玩具《おもちゃ》の犬を抱いて、家のものに見せて歩いた。
「お雪、銀ちゃんを抱いて来て御覧」と三吉が言った。
「これ、温順《おとな》しく寝てるものを、そうッとして置くが可い」とお種は壁に寄せて寝かしてある一番|幼少《ちいさ》い銀造の顔を覗《のぞ》きに行った。
「どうです、姉さん、これが六人めですよ――随分出来も出来たものでしょう」
「お前さんのところでは、お雪さんも御達者だし、どうして未だ未だこれから出来ますよ」
こんなことを傍で言われて、お雪はキマリが悪そうに茶戸棚《ちゃとだな》の方へ行った。
「真実《ほんと》に、子供があると無いじゃ、家の内が大違いだ」と言って、お種は正太の家のことを思い比べるような眼付をした。
その日、お種は心易く振舞おう振舞おうとしていたが、どうかすると酷《ひど》く興奮した調子が出て来た。時にはそれが病的に聞えた。すこしも静止《じっと》していられないような姉の様子が、何となくお雪には気づかいであった。お種は狭い町中の住居《すまい》をめずらしく思うという風で、取散した勝手元まで見て廻ろうとするので、お雪はもう冷々《ひやひや》していた。
姉を案内して、三吉は二階の部屋へ上った。日中《ひるなか》の三味線の音が、乾燥《はしゃ》いだ町の空気を通して、静かに響いて来た。
「姉さん、東京も変りましたろう」
こういう弟の話を、お種は直に吾児《わがこ》の方へ持って行った。
「今度、出て来てみたら、正太の家には妙なものが掛けてある。何様とかの御護符《おふだ》だげナ。そして、一寸したことにも御幣を担《かつ》ぐ。相場師という者は皆なこういうものだなんて……若い時はあんな奴じゃなかったが……」
「しかし、正太さんはナカナカ面白いところが有りますよ。ウマくやってくれると宜《よ》う御座んすがネ」
「まあ、彼《あれ》は、阿爺《おとっ》さんから見ると、大胆なところが有るで――」
お種は言い淀《よど》んで、豊世から聞いた正太と他の女との関係を心配そうに話した。
「アア向島の芸者のことですか」
「それサ」
「へえ、豊世さんは心配してるんですかネ。そんな話は、疾《とっ》くにどうか成ったかと思っていた」
「ところがそうで無いらしいから困るテ……豊世もあれで、森彦叔父さんなら何事《なん》でも話せるが、どうも三吉叔父さんは気遣《きづか》いだなんて言ってる」
こうお種が言って笑ったので、三吉の方でも苦笑《にがわらい》した。
お雪は姉の馳走《ちそう》に取寄せた松の鮨《すし》なぞを階下《した》から運んで来た。子供が上って来ては、客も迷惑だろうと、お雪はあまり話の仲間入もしなかった。
三吉は半ば串談《じょうだん》のように、「お雪は姉さんをコワがっていますよ」
「そんなことがあらすか」とお種は階梯《はしごだん》を下りかけたお雪の方を見て、「ねえ、お雪さん、貴方とは信州以来の御馴染ですものネ」
お種の神経質らしい笑声を聞いて、お雪は泣き騒ぐ子供の方へ下りて行った。
三吉は思い付いたように、戸棚の方へ起って行った。実が満洲へ旅立つ時、預って置いた父の遺筆を取出した。箱の塵《ちり》を払って、姉の前に置いて見せた。その中には、忠寛の歌集、万葉仮名で書いた短冊《たんざく》、いろいろあるが、殊にお種の目を引いたのは、父の絶筆である。漢文で、「慷慨《こうがい》憂憤の士を以《も》って狂人と為す、悲しからずや」としてある。墨の痕《あと》も淋漓《りんり》として、死際《しにぎわ》に震えた手で書いたとは見えない。
父忠寛が最後の光景《ありさま》は、いつも三吉が聞いて見たく思うことであった。お鶴が通夜の晩に、皆な集って、お倉から聞いた時の話ほど、お種は委《くわ》しく記憶していなかった。そのかわり、お種はお倉の記憶に無いことを記憶していた。
「大きく『熊』という字を書いて、父親《おとっ》さんが座敷牢から見せたことが有ったぞや」とお種は弟に微笑《ほほえ》んで見せて、「皆な、寄《よ》って集《たか》って、俺を熊にするなんて、そう仰《おっしゃ》ってサ……」
「熊はよかった」と三吉が言った。
「それは、お前さん、気分が種々に成ったものサ。可笑《おか》しく成る時には、アハハ、アハハ、独りでもう堪《こた》えられないほど笑って、そんなに可笑しがって被入《いら》っしゃるかと思うと、今度は又、急に沈んで来る……私は今でもよく父親さんの声を覚えているが、きりぎりす啼《な》くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む、そう吟じて置いて、ワアッと大きな声で御泣きなさる……」
お種は激しく身体を震《ふるわ》せた。父が吟じたという古歌――それはやがて彼女の遣瀬《やるせ》ない心であるかのように、殊に力を入れて吟じて聞かせた。三吉は姉の肉声を通して、暗い座敷|牢《ろう》の格子に取縋《とりすが》った父の狂姿を想像し得るように思った。彼はお種の顔を熟《じっ》と眺めて、黙って了った。
この姉が上京する前、正太から話のあった
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