言った。
「そうせまいか。二階で話さまいか」と言って、お種は子供を背中に乗せて、「お仙もいらっしゃい」
「母親さん、危う御座んすよ」と豊世は灯の点《つ》いた洋燈《ランプ》を持ちながら、皆なの後から階梯《はしごだん》を上った。
 二階は、水楼の感じがすると、三吉が来る度《たび》に言うところで、隅田川《すみだがわ》が好く見えた。対岸の町々の灯は美しく水に映じていた。正太に似て背の高いお仙は、縁側の欄《てすり》に近くいて、母や叔父の話を聞こうとした。この娘の癖で、どうかすると叔父の顔に近く自分の処女《おとめ》らしい顔を寄せて、言い難い喜悦《よろこび》の情を表わそうとした。お仙は二十五六に成るとは見えなかった。ずっと若く見えた。
「どうだネ、お仙、三吉叔父さんにお目に掛ってどんな気がするネ」
 と母に言われて、お仙は白い繊細《ほそ》い手を口に宛行《あてが》いながら、無邪気に笑った。
「彼女《あれ》は、どの位嬉しいか解《わから》ないところだ」とお種は三吉に言って聞かせた。「お前さん達のことばかり言い暮して来た。彼女が郷里《くに》へ連れられて行ったのは、六歳《むっつ》の時だぞや。碌《ろく》に記憶《おぼえ》があらすか。今度初めて東京を見るようなものだわい」
 種夫はすこしも静止《じっと》していなかった。部屋の内は正太の趣味で面白く飾ってあったが、子供はそんなことに頓着《とんじゃく》なしで、大切な道具でも何でも玩具にして遊ぼうとした。
「種ちゃん、いらッしゃい、豊世叔母ちゃんが負《おん》ぶして進《あ》げましょう――表の方へ行って見て来ましょうネ」
 と豊世は種夫を連れて、階下《した》へ行った。やがて、往来の方からお仙を呼ぶ声がした。
「お仙ちゃんも、そこいらまで一緒に見に行きませんか」
 豊世が誘うままに、お仙も町の夕景色を見に出掛けた。
 正太は母や叔父を款待《もてな》そうとして、階梯《はしごだん》を上ったり下りたりした。二階の縁側に近く煙草盆《たばこぼん》を持出して、三吉はお種と相対《さしむかい》に坐った。お種が広い額には、何となく憂鬱《ゆううつ》な色が有った。でも案じた程でも無いらしいので、三吉もやや安心して、亡くなった三人の子供の話なぞを始めた。山で別れてから以来《このかた》、お種は言いたいことばかり、何から話して可いか解らない程であった。
「房ちゃん達のことを思うと、種夫もよくあれまでに漕付《こぎつ》けましたよ。どの位手数の要《かか》ったものだか知れません」
「そうさ――どうも見たところが弱そうだ」
 姉弟《きょうだい》が話の糸口は未だ真実《ほんとう》に解《ほど》けなかった。急に、正太は階下《した》から上って来て、洋燈の置いてあるところに立った。
「母親さん、お仙ちゃんが居なくなったそうです」
 こう坐りもせずに言った。思わず三人顔を見合せた。


 お仙を探しに行った三吉が、町を一廻りして帰って来た頃は、正太も、豊世も、お種も出て居なかった。家には、老婆《ばあさん》一人|茫然《ぼんやり》と留守をしていた。
「お仙ちゃんは未だ帰りませんか」
 と庭から声を掛けて、三吉は下座敷へ上って見た。壁に寄せて座蒲団《ざぶとん》の上に寝かして置いた種夫の姿も見えなかった。
「坊主は?」
「坊ちゃまですか。めんめを御覚《おさま》しだもんですから、御隠居様が負《おん》ぶなさいまして、表の方へ見にいらッしゃいました」
 夏の夜のことで、河の方から来る涼しい空気が座敷の内へ通っていた。三吉は水浅黄色のカアテンの懸った玻璃《ガラス》障子のところへ行って見た。そこから、石段の下を通る人や、町家の灯や、水に近い夜の空なぞを眺《なが》めながら立っていた。お仙が居なくなったという時から、やがて一時間も経つ……
 三吉は老婆《ばあさん》の方へ引返した。
「もう一度、私は行って見て来ます」
 老婆は考深く、「御嬢様も、もうそれでも御帰りに成りそうなものですね」
「何処《どこ》ですか、そのお仙ちゃんの見えなく成ったという処は」
「なんでも奥様が御一緒に買物を遊ばしまして――ホラ、電車通に小間物を売る店が御座いましょう――彼処《あすこ》なんで御座いますよ。奥様は、御嬢様が御側に居《い》らッしゃることとばかり思召して、坊ちゃまに何か御見せ申していらしったそうですが、ちょっと振向いて御覧なさいましたら、最早御嬢様は御見えに成らなかったそうです。それはもう、ホンのちょっとの間に……」
 それを聞いて、三吉は出て行った。
 二度目に彼が引返して、暗い石垣の下までやって来ると、お種は娘の身の上を案じ顔に、玻璃障子のところに立っていた。
「姉さん、お仙ちゃんは?」と三吉は往来から尋ねてみた。
「未だ帰らない」
 という姉の答を聞いて、三吉も不安を増して来た。
「三吉」とお種は弟を家の内へ入れてから言った。「お前は今夜、是方《こっち》で泊ってくれるだろうネ」
「ええ、とにかく行って坊主を置いて来ます――それから復たやって来ましょう」
「ああそうしておくれ。弱い子供だから、お雪さんが心配すると不可《いけない》。ワンワンも持たせてやりたいが、可いわ、私がまた訪ねる時にお土産《みや》に持って行かず」
 三吉は眠そうな子供を姉の手から抱取った。
「坊ちゃまのお下駄《げた》はいかがいたしましょう」と老婆が言葉を添える。
「ナニ、構いませんから、新聞に包んで私の懐中《ふところ》へ捩込《ねじこ》んで下さい」
 こう三吉は答えて、「種ちゃん、吾家《おうち》へ行くんだよ」と言い聞かせながら、子供を肩につかまらせて出た。種夫は眠そうに頭を垂れて、左右の手もだらりと下げていた。
「まあ御可愛そうに、おねむでいらッしゃる」と老婆が言った。
 三吉が自分の家へ子供を運んで置いて、復た電車で引返して来た頃は、半鐘が烈《はげ》しく鳴り響いていた。細い路地や往来は人で埋まった。お仙が居なく成ったというさえあるに、加《おまけ》に火事とは。三吉は仰天して了《しま》った。火は正太の家から半町ほどしか離れていなかった。
「これはまあ何という事だ」
 というお種の言葉を聞捨てて、三吉は二階へ駆上った。続いてお種も上って来た。
 雨戸を開けて見ると、燃え上る河岸《かし》の土蔵の火は姉弟の眼に凄《すさま》じく映った。どうやら、一軒で済むらしい。見ているうちに、すこし下火に成る。
「もう大丈夫」
 と正太も階下《した》から上って来た。三人は無言のまま、一緒に火を眺めて立っていた。雨戸を閉めて置いて、三人は階下へ下りた。まだ往来は混雑していた。石段を上って来て、火事見舞を言いに寄るものもあった。正太は心の震動《ふるえ》を制《おさ》えかねるという風で、
「叔父さん、済みませんが下谷《したや》の警察まで行って下さいませんか……浅草の警察へは今届けて来ました」
「お仙も」とお種は引取って、「ああいう神様か仏様のようなやつだから、存外無事で出て来るかも知れないテ」
「お仙ちゃんは、ここの番地を覚えていますまいね」と三吉が聞いた。
「どうも覚えていまいテ」とお種は歎息する。
「なかなか車に乗るという智慧《ちえ》は出そうもない――おまけに、一文も持っていない」と正太も附添《つけた》した。
 三吉は思い付いたように、老婆の方を見て、「老婆さん、貴方はあの路地のところへ行って、角に番をしていて下さい。じゃあ私は下谷の警察まで行って来ます」


 夜は更《ふ》けて来た。火事の混雑の後で、余計に四辺《あたり》はシーンとしていた。青ざめた街燈の火に映る電車通には、往来《ゆきき》の人も少なかった。柳並木の蔭は暗い。路地の角に、豊世と老婆《ばあさん》の二人が悄然《しょんぼり》立って、見張をしている。そこへ三吉が帰って来た。
「まだ帰りませんか」と三吉は二人に近づいて尋ねた。
「叔父さん、どうしたら宜《よ》う御座んしょうね」と豊世は愁《うれ》わしげに答えた。
「まあ家へ行って相談しようじゃ有りませんか」
 こういう三吉の後に随《つ》いて、豊世は重い足を運んだ。老婆も黙って歩いて行った。
 正太の家には、お仙を捜しに出たものが皆な一緒に集った。
「何時でしょう」と三吉が言出した。
「十一時過ぎました」と正太は懐中時計を出して見て答えた。
 しばらく正太は沈吟するように部屋の内を歩いて見た。やがて、玻璃《ガラス》障子の閉めてあるところへ行って、暗い空を窺《うかが》いながら立っていたが、復た皆なの居る方へ引返した。時々、彼は可恐《おそろ》しげな眼付をして、豊世の顔を睨《にら》みつけた。
「あぶないあぶないと平素《ふだん》から思っていたが、これ程とは思わなかった」正太はこんな風に妹のことを言って見た。
「一体、私が子供なぞを連れてやって来たのが悪かった」と三吉が言った。
 お種は引取って、「そんなことを言えば、私がお仙を連れて出て来たのが悪いようなものだ。いや、誰が悪いんでも無い。みんなあの娘《こ》が持って生れて来たのだぞや。どんなことが有ろうとも、私はもう絶念《あきら》めていますよ。それよりは、働けるものが好く働いて、夫婦して立派なものに成ってくれるのが、何よりですよ」
「私はネ」と正太は叔父の方を見て、「事業《しごと》と成ると、どんなにでも働けますが――使えば使うだけ、ますます頭脳《あたま》が冴《さ》えて来るんです――唯、こういう人情のことには、実際閉口だ」
「正太もまた、こんなことに凹《へこ》んで了うようなことじゃ不可《いけない》」
 とお種は健気《けなげ》にも、吾児《わがこ》を励ますように言う。
「ナニ、これしきのことに凹んでたまるもんですか。私の頭脳の中には、今塩瀬の店の運命がある――おまけに明日は晦日《みそか》という難関を控えている」
 こう言って、正太は鋭い眼付をした。
「さアさ」とお種は浴衣《ゆかた》の襟《えり》を掻合《かきあわ》せながら、家中を見廻して、「出来たことは仕方が有りません。とにかく一時頃まで皆なに休んで貰って、三吉と正太には気の毒だが、それからもう一度捜しに行って貰わず。三吉、すこし寝たが可いぞや。老婆《ばあさん》もそこで横にお成りや――それにかぎる」
 寝ろと言われても、誰も寝られるものは無かった。第一、そういうお種が眠らなかった。すこし横に成って見た人も、何時の間にか起きて、皆なの話に加わった。十二時頃、一同夜食した。
 時計が一時を打つ頃、三吉、正太の二人は更に仕度《したく》して出掛けることに成った。
「叔父さん、風邪《かぜ》を引くといけませんよ――シャツでも進《あ》げましょう」と言って、正太は豊世の方を見て、「股引《ももひき》も出して進げな」
「じゃあ、拝借するとしよう」と三吉が言った。
 三吉は股引に尻端折《しりはしょり》。正太もきりりとした服装《なり》をして、夏帽子を冠って出た。


「姉さん、お仙ちゃんが帰って来たそうですネ――よかった、よかった。僕は今そこの交番で聞いて来た」
 と言って、三吉が飛込んで来た。
「お仙、叔父さんに御礼を言わないか」
 とお種に言われて、お仙はすこし顔を紅《あか》めながら手を突いた。この無邪気な娘は唯マゴマゴしていた。
「叔父さん、もうすこしで危いところ」と豊世は妹の後に居て、「悪い者に附かれたらしいんですが、好い塩梅《あんばい》に刑事に見つかったんだそうです。今まで警察の方に留めて置かれたんですッて」
 そこへ正太も妹の無事を喜びながら入って来た。
「随分心配させられたぜ、もうもうどんなことが有っても、独《ひと》りでなんぞ屋外《そと》へ出されない」と言って、正太は溜息《ためいき》を吐《つ》いて、「お仙がもし帰らなかったら、それこそ家のやつを擲殺《はりころ》してくれようかと思った」
「ええ、そこどこじゃない」と豊世は後向に涙を拭《ふ》いて、「お仙ちゃんが帰らなければ、私はもう死ぬつもりでしたよ……」
 一同はお仙を取囲《とりま》いて種々なことを尋ねて見た。お仙は混雑した記憶を辿《たど》るという風で、手を振ったり、身体《からだ》を動《ゆす》ったりして、
「なんでもその男の人が、
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