ど気の優しい、目下のものにも親切な人でしたよ」
「種々なことを聞いて見たいナア。ああいう気性の阿爺さんですから、女のことなぞはサッパリしていましたろうネ」
「ええ、ええ、サッパリ……でも、癇の起った時なぞは、どうかするとお末が母親さんや私達の方へ逃げて来ましたよ……お末という下婢《おんな》が家に居ましたあね」
「へえ、阿爺さんのような人でもそんなことが有りましたか」
 三吉は正太と顔を見合せた。誰かクスクス笑った。
 その晩は、三吉、正太夫婦なぞが起きていて、疲れた親子を横に成らせた。お倉は、遠い旅にある夫、他《よそ》へ嫁《かたづ》く約束の娘、と順に考えて、寝ても寝られないという風であった。心細そうに、お俊の方へ身体を持たせ掛けた。
「鶴ちゃんが死んで了えば、私はもう誰にも掛るものが無い――真実《ほんと》に、一人ぼッち」
「母親さん、そんなことを言うもんじゃ無くってよ」


「ヤア、ヤア――どうも御苦労様でした」
 お鶴の葬式が済んだ後で、三吉は正太を自分の家へ誘って来た。一緒に二階の部屋へ上った。
 お雪は夫の好きな茶を入れて持って来た。障子を開けひろげて、三吉は正太と相対《さしむかい》に坐った。
「叔母さん、すこし吾家《うち》も片付きました。ちと何卒《どうぞ》被入《いらし》って下さい。経師屋《きょうじや》を頼みまして、二階から階下《した》まですっかり張らせました」
「正太さんの今度の御家は大層見晴しが好いそうですネ」
「ええ、まあ川はよく見えます。そのかわり蛞蝓《なめくじ》の多いところで、これには驚きました。匍《は》った痕《あと》が銀色して光っています。なんでもあの辺から御宅あたりへ掛けて、蛞蝓が名物ですトサ……叔父さんも何卒《どうぞ》復たお近いうちに……御宅から吾家《うち》までは、七八町位のものですから、運動かたがた歩いて被入《いらっ》しゃるには丁度好う御座んす」
 夕日は部屋の内に満ちて来た。河岸の方から町中へ射し込む光線は、屋根と屋根の間を折れ曲って、ある製造場の高い硝子《ガラス》を燃えるように見せた。お雪は縁側へ出て町の空を眺《なが》めたが、やがて子供の泣声を聞いて、階下《した》へ下りて行った。
「正太さん、女達の間に一つ問題が持上っています。兄貴の家も妙なことに成りましたろう。娘があっても、後を継がせるものが無い。俊が嫁に行って了えば、もうそれッきりということに成って来た。鶴に養子をする――そのつもりで兄貴も出て行ったんです。鶴が居なく成った。俊はどうしたものか。私なら親の方に残るという説と、私はお嫁に行っても差支《さしつかえ》ないと思うという説と、女達の間に問題に成っているんです」
「私も婚約を破るということは、不賛成です。結納でも交換《とりかわ》してなければ格別、交換してある以上は、無論これは夫婦にすべきものと思います」
「僕も、まあそう思うがネ」
「叔父さん、お俊ちゃんの方が先へお嫁に行ったと思って御覧なさい。後で鶴ちゃんが死んだとしましょう。どうすることも出来ないじゃ有りませんか」
「当人同志の意志を重んじなけりゃ成らんネ。俊もウマクやってくれると可いがナ。これで、君、俊が嫁に行き、鶴が死に……でしょう。これから兄貴がどう盛返《もりかえ》すか知らんが――長い歴史のある小泉の家は、先《ま》ず事実に於《お》いて、滅びたというものだネ」
 しばらく二人は、夕日を眺めて、黙って相対していた。
「正太さん、君なり、僕なり、俊なりは……言わば、まあ旧い家から出た芽のようなものさネ。皆な芽だ。お互に思い思いの新しい家を作って行くんだネ」
「どうかすると、橋本の家は私で終《おしまい》に成るかも知れないぞ」
 正太は考深い眼付をした。
「旧い人は駄目だなんて、言ったって……新しい時代の人だって、頼甲斐《たのみがい》があるとは言われないネ」
「ナカナカ」
 その時、種夫が一生懸命に楼梯《はしごだん》につかまってノコノコ階下《した》から上って来た。ヒョッコリ頭を出したので、三吉は子供の方へ起《た》って行った。
「オイ、お雪、危いねえ」と三吉は階下へ聞えるように怒鳴った。
「種ちゃんはもう、ずんずん独《ひと》りで上るんですもの」とお雪は階下から答えた。
「なんだか危くって仕様がない。早く来て、連れておいで」
「種ちゃんいらッしゃい」
「ア、到頭上って来ちゃった」
 と正太も種夫の方を見て笑った。
 そのうちに暮れかかって来た。町々の屋根は次第に黄昏時《たそがれどき》の空気の中へ沈んで行った。製造場の硝子戸には、未だ僅《わず》かに深い反射の色が残った。下婢《おんな》は階下《した》から洋燈《ランプ》を持って上って来た。三吉はマッチを摺《す》った。二階には燈火《あかり》が点《つ》いた。正太はそれを眺めて、自分の家の方でも最早燈火が点いたかと思った。

        六

 橋本のお種が娘お仙を連れて上京するという報知《しらせ》が、正太の家の方へ来た。半歳《はんとし》も考えて旅に出る人のように、いよいよお種が故郷を発《た》つと言って寄《よこ》したのは、七月下旬に入ってからのことであった。
「漸《ようや》く、私の待っていたような日が来た。番頭の幸作も養子分に引直して、今では家のもの同様である。それに嫁まで取って宛行《あてが》ってある。私も、留守を預けて置いて、発《た》つことが出来る。お前達はどういう日を送っているか。お仙と二人で、そちらの噂《うわさ》をしない日は無い。お前達の住む東京を、お仙にも見せたい……叔父さんや叔母さん達にも逢《あ》わせたい……」という意味が、お種の手紙には長々と認《したた》めてあった。
 この母からの便りを叔父達に知らせる積りで、先《ま》ず正太は塩瀬の店を指して出掛けようとした。
 同じ河の傍でも、三吉や直樹の住むあたりから見ると、正太の家は厩橋《うまやばし》寄の方であった。その位置は駒形《こまがた》の町に添うて、小高い石垣の上にある。前には埋立地らしい往来がある。正太は家を出て、石段を下りた。朝日が、川の方から、家の前の石垣のところへ映《あた》っていた。それを眺《なが》めると、母や妹の旅立姿が彼の眼に浮んだ……日頃、女は家を守るものと定《き》めて、めったに屋敷の外へ出たことも無いお種――そういう習慣の人が、自分から思立って上京する気に成ったとは。正太は、あの深い屋根の下に※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、128−5]《もが》き悶《あが》いていた母の生涯を思わずにいられなかった。
 塩瀬の店の車に乗って用達《ようたし》に馳廻《かけまわ》った後、正太は森彦叔父の旅舎《やどや》へ立寄り、それから引返して三吉叔父の家の前に車を停めた。丁度三吉は下座敷に居た。叔父の顔を見ると、正太は相場の思惑《おもわく》にすこし手違いを生じたことから、遣繰《やりくり》算段して母を迎える打開話《うちあけばなし》を始めた。
「へえ、お仙ちゃんを連れて? 姉さんも出て来るにはすこし早いナ」
 と三吉は首を傾《かし》げていた。
「叔父さんもそうお思いでしょう」と正太は不安らしく、「どうも母親《おっか》さんは……阿爺《おやじ》に逢うのを目的にして出て来る様子です。いろいろ綜合して、私も考えて見ました。いずれこれは、何処《どこ》かの温泉場へ阿爺を呼寄せて、そこで会見しようという希望が、母親さんに有るらしいんです……どうもそうらしい……唯母親さんが出て来るものとは、どうしても私に思われません」
 猶《なお》、的確《たしか》に言うために、正太は幸作から近く来た手紙の模様を叔父に話した。両親が、世間へは内証で、互に消息を通わせていることをも話した。
「母親さんからどういう手紙が行くものですか、それは解りませんが――」と正太はその話を継いで、「阿爺の手紙は、豊世が受取って、それから母親さんの方へ取次いでいます。時々、私も目を通します……」
「どんな風に、君の父親《おとっ》さんからは書いて寄すものかネ」と三吉が聞いた。
「あの年齢《とし》に成って、ああいう手紙を交換《とりかわ》してるものかと思うと、驚く……」と言って、正太は歎息して、「私達が書く手紙なぞとは、全然《まるっきり》違ったものなんです」
「どうでしょう、仮に、達雄さんが郷里《くに》へ帰ったとしたら――」
「そりゃ、叔父さん、阿爺が帰れば必ず用いられます――土地に人物は少いんですからネ。そこです。用いられれば、必ず復《ま》た同じことを繰返します。そりゃあ、もう目に見えています」
 叔父に逢って談話《はなし》をして見ると、正太は頭脳《あたま》がハッキリして来た。父の家出――つづいて起った崩壊の光景――その種々《さまざま》の記憶が彼の胸に浮んで来た。三吉の方でも、甥《おい》の顔を眺めているうちに、何となく空恐しい心地《こころもち》に成った。
「こりゃ姉さんにも、すこし考えて貰わんけりゃ成らんネ」と三吉が言出した。
 正太は力の籠《こも》った語気で、「ですから、私は母親さんを引留めようと思います……」
「大きにそうだ。今ここで、下手に会見なぞさせる場合では無いネ」
「もし母親さんが是方《こちら》へ参りましたら、叔父さんからもよく話して遣《や》って下さい」
 お種が帰らない夫を待つことは、最早《もう》幾年に成る、とその時三吉も数えて見た。娘お仙を夫に逢わせて見たら、あるいは――一旦《いったん》失われた父らしい心胸《こころ》を復た元へ引戻すことも出来ようか――離散した親子、夫婦が集って、もう一度以前のような家を成したい――こう彼女が、一縷《いちる》の希望を夫に繋《つな》ぎながら、心|竊《ひそ》かに再会を期して上京するというは、三吉にも想像し得るように思われた。
 門前には、車が待っていた。正太は車夫を呼んで、心忙《こころぜわ》しそうに自分の家の方へ帰って行った。


 お種がお仙と一緒に東京へ着いた翌々日、正太はその報告がてら、一寸《ちょっと》復た三吉叔父の家へ寄った。
「一昨日、母も無事に着きました」と正太は入口の庭に立ったまま、すこし改まって言った。
「お雪」と三吉は妻の方を見て、「姉さん達も御着に成ったとサ」
 お雪は最早三番目の男の児を抱いている頃であった。橋本の姉の上京と聞いて、微笑《ほほえ》みながら上《あが》り端《はな》のところへ来た。
「月でも更《かわ》りましたら、御緩《ごゆっく》り入来《いら》しって下さい」と正太は叔父叔母の顔を見比べて、「叔母さんも、何卒《どうぞ》叔父さんと御一緒に――母もネ、着きました晩なぞは非常に興奮していまして、こんな調子じゃ困ったもんだなんて、豊世と二人で話しましたが、昨日あたりから大分それでも沈静《おちつ》いて来ました――」
 簡単に母の様子を知らせて置いて、正太は出て行った。
 月でも更ったらと、正太が言ったが、久し振りで三吉は姉に逢おうと思って、その日の夕方から甥の家を訪ねることにした。種夫に着物を着更えさせて、電車で駒形《こまがた》へ行った時は、橋本とした軒燈《ガス》が石垣の上に光り始めていた。三吉は子供を抱き擁《かか》えて、勾配《こうばい》の急な石段を上った。
「種ちゃん、父さんと御一緒に――よく被入《いら》しって下さいましたねえ」と豊世が出て迎えた。
「坊ちゃま、さあアンガなさいまし」女中の老婆も顔を出した。
「こんな小さな下駄《かっこ》を穿《は》いて――」と復た、子の無い豊世がめずらしそうに言った。
 間もなく、三吉はお種やお仙と挨拶《あいさつ》を交換《とりかわ》した。遠慮の無い種夫は、綺麗に片付けてある家の内を歩き廻った。お種は自分の方へ子供を抱寄せるようにして、
「種ちゃん――これが木曾《きそ》の伯母さんですよ。お前さんの姉さん達は、よくこの伯母さんが抱ッこをしたり、負《おん》ぶをしたりしたッけが……」と言って、お仙の方を見て、「お仙や、あのワンワンをここへ持って来て御覧」
 お仙は、箪笥《たんす》の上にある犬の玩具《おもちゃ》を取出して、種夫に与えた。
「叔父さん、二階の方へいらしって下さい」と正太が先に立って
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