金しても人を助けるなんて、そんな法は無いというんです」
「むむ、それも一理ある」と森彦は快活な声で笑出した。「確かに、阿爺《おとっ》さんのは強い心から来ている。それが阿爺さんをして名倉の家を興させた所以《ゆえん》でもある。確かに、それは一つの見方に相違ない。が、俺は俺で又別の見方をしている。こうして十年も旅舎に寝転《ねころ》んで、何事《なに》を為《し》てるんだか解らない人だと世間から思われても、別に俺は世間の人に迷惑を掛けた覚は無し、兄貴のところなぞから鐚《びた》一文でも貰って出たものでは無いが、それでもああして俊の家を助けている――俺は俺の為ることを為てる積りだ」
「これがネ、一月や二月なら何でもないんですが、長い年月の間となると、随分苦しい時が有りますネ」
「いや、どうして、ナカナカ苦しい時があるよ」
 兄の笑声に力を得て、三吉は他に工面する積りで起上った。何のかんのと言って見たところで、弱い人達が生きている以上は、どうしてもそれを助けない訳にいかなかった。「食わせてくれれば食うし、食わせてくれなければそれまで」と言ったような、宗蔵の横に成った病躯《からだ》には実に強い力が有った。
「そうかい。折角来たのに御気の毒でした」
 と森彦は弟を見送りに出て言った。


 お俊は三吉叔父の家をさして急いで来た。未来の夫としてお俊が択《えら》んだ人は、丁度彼女と同じような旧家に生れた壮年《わかもの》であった。ふとしたことから、彼女はその爽快《そうかい》で沈着な人となりを知るように成ったのである。この縁談が、結納を交換《とりかわ》すまでに運ぶには、彼女は一通りならぬ苦心を重ねた。随分長い間かかった。一旦《いったん》談《はなし》が絶えた。復た結ばれた。その間には、叔父達は早くキマリを付けさせようとばかりして、彼女の心を思わないようなことが多かった。「どうでも叔父さん達の宜しいように」こう余儀なく言い放った場合にも、心にはこの縁談の結ばれることを願ったのであった。
 三吉叔父の矛盾した行為《おこない》には、彼女を呆《あき》れさせることが有る。叔父は一度、ある演壇へあの体躯《からだ》を運んだ。その時はお延も一緒で、婦人席に居て傍聴した。叔父が「女も眼を開いて男を見なければ不可《いけない》」と言ったことは、未だ忘られずにある。その叔父が姪《めい》の眼を開くことはどうでも可いような仕向が多かった。叔父は自分に都合の好いような無理な注文ばかりした。
 小泉の家の零落――それがお俊には唯悲しかった。それを思うと、涙が流れた。
 叔母のお雪は門のところに居た。種夫を背中に乗せて楽隊の通るのを見せていた。
「種ちゃん、おんぶで好う御座んすね」
 こう言って、お俊は叔母と一緒に家の内へ入った。
 三吉は二階で仕事を急いでいた。お俊が楼梯《はしごだん》を上って、挨拶に行くと、急に叔父は厳格に成った。
「叔父さん、昨日は母親《おっか》さんが上りまして――」
 とお俊は手を突いて言った。
「オオ、お前が来るだろうと思って、待っていた。まあ、是方《こっち》へお入り」
 お俊の前に堅く成って坐っている三吉は、楽しい一夏を郊外で一緒に送った頃の叔父とは別の人のようで有った。よく可笑《おかし》な顔付をして、鼻の先へ皺《しわ》を寄せたり、口唇《くちびる》を歪《ゆが》めたりして、まるで古い能の面にでも有りそうなトボケた人相をして見せて、お俊やお延を笑わせたような、そんな忸々《なれなれ》しさは見られなかった。
 三吉は自分でもそれに気がついていた。お俊と相対《さしむかい》に成ると、我知らず道徳家めいた口調に成ることを、深く羞《は》じていた。そして、言うことが何となく虚偽《うそ》らしく自分の耳にも響くことを、心苦しく思っていた。不思議にも、彼はそれをどうすることも出来なかった……お俊の結婚に就《つ》いても、もっとユックリした気分で、こうしたら可かろうとか、ああしたら可かろうとか、種々話してやりたいと心に思っていた。妙に口へ出て来なかった……唯……「叔母さんの留守に、叔父さんは私の手を握りました――」と人に言われそうな気がして、お俊の顔を見ると何事《なんに》も言えなかった。どんな為になることを言っても、為《し》ても、皆なその一点に打消されて了うような気もした。三吉は心配して作って置いた約束の金を取出した。苦しむ獣のような目付をして、それを姪の前に置いた。
「何故、叔父さんはこうだろう……」
 とお俊は自分で自分に言ってみて、宗蔵の世話料を受取った。
 長くも居られないような気がして、お俊は一寸礼を述べて、やがて階下《した》へ下りた。
 お雪の居る部屋には、仕事が一ぱいにひろげてあった。叔母は長火鉢のところで茶を入れて、キヌカツギなぞを取出しながら、姪と一緒に上野や向島の噂をした。
「父さん、御茶が入りました」
 とお雪は楼梯《はしごだん》の下から声を掛けたので、三吉も下りて来た。三人一緒に成ってからは、三吉も機嫌《きげん》を直した。叔母や姪は睦《むつ》まじそうに笑った。
 何処までもお俊は気をタシカに持って、言うことだけは叔父に言って置こうという風で、
「叔父さん――昨日母親さんに御話が有ったそうですが、宗蔵叔父さんと一緒に成ることは御断り申します」
 と帰りがけに、口惜《くや》しそうに言った。
 三吉は苦笑した。腹《おなか》の中で、「なにも俺は、無理に一緒に成れと言ったんじゃ無いんだ――串談《じょうだん》半分に、一寸そんなことを言って見たんだ――お前達はそう釈《と》って了うから困る」こうも思ったが、あまりお俊にキッパリ出られたので、それを言う気に成らなかった。
 姪が帰って行った後で、三吉は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「何故、俊はああだろう」
 とお雪に言って見た。叔父の心は姪に解らず、姪の心は叔父に解らなかった。


 不意な出来事が実の留守宅に起った。お鶴を病院へ入れなければ成らない。この報知《しらせ》を持って、お延は三吉の家へ飛んで来た。不図した災難が因《もと》で、お鶴は発熱するように成ったのであった。
 間もなくお鶴は病院の方へ運ばれた。一週間ばかり煩《わずら》った後で、脳膜炎で亡くなった。
 河岸《かし》の柳の花も落ち始める頃、三吉は不幸な娘の為に通夜をする積りで、お俊の家をさして出掛けた。お雪も、子供を下婢《おんな》に托《たく》して置いて、夫よりは一歩《ひとあし》先《さき》に出た。
 親戚は実の留守宅へ集って来た。森彦、正太夫婦を始め、お俊が父方の遠い親戚とか、母方の縁者とか、そういう人達まで弔《くや》みを言い入れに来た。混雑《ごたごた》したところへ、丁度三吉も春先の泥をこねてやって来た。「鶴《つう》ちゃんも、可哀そうなことをしましたね」こういう言葉が其処《そこ》にも是処《ここ》にも交換《とりかわ》された。台所の方には女達が働いていた。
「ここの家は神葬祭だネ。禰宜《ねぎ》様を頼まんけりゃ成るまい」と森彦はお倉の方を見て言った。
「宗さんの旧《ふる》い歌仲間で、神主をしてる人があります」とお倉が答えた。「母親《おっか》さんの生きてる時分には、よくその人を頼んで来て貰いました」
「よし。では、正太は気の毒だが、その禰宜様のところへ行って来てくれや」
「正太さん、僕も一緒に行きましょう」
 と三吉は甥《おい》の側へ寄った。
 遠い神主の寓居《すまい》の方から、三吉、正太の二人が帰って来た頃は、近い親戚のものだけ残った。お倉は取るものも手に着かないという風で、唯もう狼狽《ろうばい》していた。お俊は一人で気を揉《も》んだ。会計も娘が預った。
「お雪」と三吉が声を掛けた。「お前は今日は御免|蒙《こうむ》ったら可かろう」
「叔母さん、何卒《どうぞ》御帰りなすって下さい」とお俊が言った。
 奥に机を控えていた森彦は振向いた。「そうだ。子持は帰るが可い。俺もこの葉書を書いたら、今日は帰る……通知はなるべく多く出した方が可いぞ……俊、もっと葉書を出すところはないか。郷里《くに》の方からもウント香典を寄《よこ》して貰わんけりゃ成らん」
 死んだ娘の棺を側に置いて、皆な笑った。
 暮れてから、通夜をする為に残った人達が一つところへ集った。豊世は正太の傍へ行って、並んで睦まじそうに坐った。
「世間の評判では、僕は細君の尻《しり》に敷かれてるそうだ」
 こう正太は当てつけがましいことを言って、三吉やお倉の方を見ながら笑った。豊世は俯向《うつむ》いて、萎《しお》れた。
 お倉は娘の棺の方へ燈明の油を見に行った。復《ま》た皆なの方へ戻って来て、
「正太さんの所でも御越しに成ったそうですネ」
「ええ」と正太は受けて、「叔母さんも御淋《おさび》しく成りましたろうから、ちと御話に被入《いらし》って下さい。今度は三吉叔父さんと同じ川の並びへ移りました」
「三吉叔父さんは一度|被入《いらし》って下さいました」と豊世がお倉に言った。
「今度の家は好いよ」と三吉は正太を見て、「第一、川の眺望《ながめ》が好い」
「延ちゃんも姉さんと一緒に遊びにお出」と正太は娘達の方を振向いた。
 土器《かわらけ》の燈明は、小泉を継がせる筈《はず》のお鶴の為に、最後の一点の火のように燃《とぼ》った。お倉は、この名残《なごり》の住居で、郷里《くに》の方にある家の旧い話を始めた。弟、娘、甥、姪などの視線は、過去った記憶を生命《いのち》としているような不幸な婦《おんな》の方へ集った。
 お倉はよく覚えていた。家を堅くしたと言われる祖父が先代から身上《しんしょう》を受取る時には、銭箱に百文と、米蔵に二俵の貯《たくわ》えしか無かった。味噌蔵も空であった。これでどうして遣《や》って行かれると祖父祖母が顔を見合せた時に、折よく大名が通りかかって、一夜に大勢の客をして、それから復た取り付いた。こんな話から始めて、街道一と唄《うた》われた美しい人が家に生れたこと、その女の面影をお倉もいくらか記憶していることなぞを語り聞かせた。
「へえ、叔母さんは真実《ほんと》に覚えが好い」と正太も昔|懐《なつか》しい眼付をした。
 お倉の話は父忠寛の晩年に移って行った。狂死する前の忠寛は、眼に見えない敵の為に悩まされた。よく敵が責めて来ると言い言いした。それを焼払おうとして、ある日|寺院《てら》の障子に火を放った。親孝行と言われた実も、そこで拠《よんどころ》なく観念した。村の衆とも相談の上、父の前に御辞儀をして、「子が親を縛るということは無い筈ですが、御病気ですから許して下さい」と言って、後ろ手にくくし上げた。それから忠寛は木小屋に仮に造った座敷|牢《ろう》へ運ばれた。そこは裏の米倉の隣りで、大きな竹藪《たけやぶ》を後にして、前手《まえで》には池があった。日頃一村の父のように思われた忠寛のことで、先生の看護と言って、村の人々はかわるがわる徹夜で勤めに来た。附添に居た母の座敷は、別に畳を敷いて設けた。そこから飲食《のみくい》する物を運んだ。どうかすると、父は格子のところから母を呼んだ。「ちょっと是処へ来さっせ」と油断させて置いて、母の手のちぎれる程引いた。薄暗い座敷牢の中で、忠寛の仕事は空想の戦を紙の上に描くことで有った。さもなければ、何か書いてみることであった。忠寛は最後まで国風《こくふう》の歌に心を寄せていた。ある時、正成の故事に傚《なら》って、糞合戦《くそがっせん》を計画した。それを格子のところで実行した。母も、親戚も、村の人も散々な足利勢《あしかがぜい》であった……
 皆な笑い出した。
「私は阿爺《おとっ》さんの亡くなる時分のことをよく知りません。御蔭で今夜は種々なことを知りました」と三吉は嫂に言った。「あれで、阿爺さんは、平素《ふだん》はどんな人でしたかネ」
「平素ですか。癇《かん》さえ起らなければ、それは優しい人でしたよ。宗さんが、貴方、子供の時分と来たら、ワヤク(いたずら)なもんで、よく阿爺さんにお灸《きゅう》をすえられました……阿爺さんはもう手がブルブル震えちまって、『これ、誰か来て、早く留めさっせれ』なんて……それほ
前へ 次へ
全33ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング