んな》と一緒に湯へ行った。改まったような心地のする畳の上で、三吉はめずらしく郷里《くに》から出て来た橋本の番頭を迎えた。
「今|御新造《ごしんぞ》さん(豊世)が買物に行くと言って、そこまで送って来てくれました。久し振で東京へ出たら、サッパリ様子が解りません」
 こう番頭が言って、橋本の家風を思わせるような、行儀の好い、前垂を掛けた膝《ひざ》を長火鉢の方へ進めた。
 番頭は幸作と言った。大番頭の嘉助が存命の頃は、手代としてその下に働いていたが、今はこの人が薬方《くすりかた》を預って、一切のことを切盛《きりもり》している。旧《ふる》い橋本の家はこの若い番頭の力で主に支《ささ》えられて来たようなもので有った。幸作は正太よりも年少《としわか》であった。
 黒光りのした大黒柱なぞを見慣れた眼で、幸作は煤掃《すすはき》した後の狭細《せせこま》しい町家の内部《なか》を眺め廻した。大旦那の噂が始まった。郷里《くに》の方に留守居するお種――三吉の姉――の話もそれに連れて出た。
「どうも大御新造(お種)の様子を見るに、大旦那でも帰って来てくれたら、そればかり思っておいでなさる。もうすこし安心させるような工夫は無いものでしょうか」
 世辞も飾りも無い調子で、幸作は主人のことを案じ顔に言った。姉の消息は三吉も聞きたいと思っていた。
「姉さんは、君、未だそんな風ですかネ」
「近頃は復《ま》た寝たり起きたりして――」
「困るねえ」
「私も実に弱って了《しま》いました。今更、大旦那を呼ぶ訳にもいかず――」
「達雄さんが帰ると言って見たところで、誰も承知するものは無いでしょう。僕も実に気の毒な人だと思っています……ねえ、君、実際気の毒な……と言って、今ここで君等が生優《なまやさ》しい心を出してみ給え、達雄さんの為にも成りませんやね」
「私も、まあそう思っています」
「よくよく達雄さんも窮《こま》って――病気にでも成るとかサ――そういう場合は格別ですが、下手《へた》なことは見合せた方が可いネ」
「大御新造がああいう方ですから、私も間に入って、どうしたものかと思いまして――」
「こう薬の手伝いでもして、子のことを考えて行くような、沈着《おちつ》いた心には成れないものですかねえ。その方が可いがナア」
「そういう気分に成ってくれると難有《ありがた》いんですけれど」
「姉さんにそう言ってくれ給え――もし達雄さんが窮《こま》って来たら、『窮るなら散々御窮りなさい……よく御考えなさい……是処《ここ》は貴方の家じゃ有りません』ッて。もし真実《ほんとう》に達雄さんの眼が覚《さ》めて、『乃公《おれ》はワルかった』と言って詫《わ》びて来る日が有りましたら、その時は主人公の席を設けて、そこで始めて旦那を迎えたら可いでしょうッて――」
 幸作は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「実に妙なものです。ここは私も一つ蹈張《ふんば》らんけりゃ不可《いかん》、と思って、大御新造の前では強いことを言っていますが……時々私は夢を見ます。大旦那が大黒柱に倚凭《よりかか》って、私のことを『幸作!』と呼んでいるような――あんなヒドイ目に逢いながら、私はよくそういう夢を見ます。すると、眼が覚めた後で、私はどんな無理なことでも聞かなければ成らないような気がします……」
 こう話しているところへ、お雪が湯から帰って来た。三吉は妻の方を見て、
「オイ、幸作さんから橋本の薬を頂いたぜ」
「毎度子供の持薬に頂かせております」
 とお雪は湯上りのすこし逆上《のぼ》せたような眼付をして、礼を言った。
 幸作の話は若旦那のことに移った。小金の噂《うわさ》が出た。彼は正太の身の上をも深く案じ顔に見えた。
「実は御新造さんから手紙が来て、相談したいことが有ると言うもんですから、それで私も名古屋の方から廻って来ました」
「へえ、その為に君は出て来たんですか。そんなに大騒ぎしなくても可いことでしょう。豊世さんもあんまり気を揉《も》み過ぎる」
「何ですか心配なような手紙でしたから、大御新造には内証で」
「そう突《つッつ》き散《ち》らかすと、反《かえ》っていけませんよ」
 その晩、幸作は若旦那の家の方へ寝に行った。


 復たポカポカする季節に成った。三吉が家から二つばかり横町を隔てた河岸《かし》のところには、黄緑《きみどり》な柳の花が垂下った。石垣《いしがき》の下は、荷舟なぞの碇泊《ていはく》する河口で、濁った黒ずんだ水が電車の通る橋の下の方から春らしい欠伸《あくび》をしながら流れて来た。
 この季節から、お菊やお房の死んだ時分へかけて、毎年のように三吉は頭脳《あたま》が病めた。子を失うまでは彼もこんな傷《いた》みを知らなかったのである。半ば病人のような眼付をして、彼は柳並木の下を往《い》ったり来たりした。白壁にあたる温暖《あたたか》い日は彼の眼に映った。その焦々《いらいら》と萌《も》え立つような光の中には、折角彼の始めた長い仕事が思わしく果取《はかど》らないというモドカシさが有った。稼《かせ》ぎに追われる世帯持の悲しさが有った。石垣に近く漕《こ》いで通る船は丁度彼の心のように動揺した。
 三吉は土蔵の間にある細い小路《こうじ》の一つを元来た方へ引返して行った。彼はこういう小路だけを通り抜けて家まで戻ることが出来た。
 お俊の母親が彼を待受けていた。
「姉さんが先刻《さっき》から被入《いらし》って、貴方を待ってますよ」
 とお雪は長火鉢の傍で言った。煙草を吸付けて、それを嫂《あによめ》にすすめていた。
 金の話はとかく親類を気まずくさせた。それに仕事の屈託で、髪も刈らず髭《ひげ》も剃《そ》らず、寝起のように憂鬱《ゆううつ》な三吉の顔を見ると、お倉は言おうと思うことを言い兼ねた。不幸な嫂の話は廻りくどかった。
「畢竟《つまり》、先方《さき》の家では宗さんの世話が出来ないと言うんですか」
 こう言って三吉は遮《さえぎ》った。
「いえ、そういう訳じゃ無いんですよ」とお倉は寂しそうに微笑《ほほえ》みながら、「先方だってもあの通り遊んでいるもんですから、世話をしたいは山々なんです。なにしろ手の要《かか》る病人ですからねえ。それに物価はお高く成るばかりですし……」
 復た復たお倉の話は横道の方へ外《そ》れそうなので、三吉の方では結末を急ごうとした。
「あれだけ有ったら、いきそうなものですがナア」
「そこですよ。もう二円ばかりも月々増して頂かなければ、御世話が出来かねるというんです」
「姉さん、どうです」と三吉は串談《じょうだん》のように、「貴方の方で宗さんを引取っては。私の方から毎月の分を進《あ》げるとしたら、その方が反《かえ》って経済じゃ有りませんか」
「真平《まっぴら》」とお倉は痩細《やせほそ》った身体を震わせた。「宗さんと一緒に住むのは、死んでも御免だ」
 傍に聞いているお雪も微笑んだ。
 病身な宗蔵は、実の家族から、「最早お目出度く成りそうなもの」と言われるほど厄介に思われながら、未だ生きていた。実の出発後は、三吉がこの病人の世話料を引受けて、月々お俊の家へ渡していた。どんなに三吉の方で頭脳《あたま》の具合の悪い時でも、要《い》るだけのものは要った。無慈悲な困窮は迫るように実の家族の足を運ばせた。
「折角、姉さんに来て頂いたんですけれど、今日は困りましたナア」
 と三吉は額に手を宛てた。とにかく、増額を承諾した。金は次の日お俊に取りに来るようにと願った。
 お俊が縁談も出た。
「御蔭様で、結納《ゆいのう》も交換《とりかわ》しました。これで、まあ私もすこし安心しました」
 とお倉はお雪の方を見て言った。
 この縁談が纏《まと》まるにつけても、お俊の親に成るものは森彦と三吉より他に無かった。森彦の発議で、二人はお俊の為に互に金を出し合って、一通りの結婚の準備《したく》をさせることにした。
「姉さん、まあ御話しなすって下さい。私は多忙《いそが》しい時ですから一寸失礼します」
 こう言い置いて、三吉は二階の部屋へ上って行った。
 仕事は碌《ろく》に手につかなかった。三吉が歩きに行って来た方から射し込む日は部屋の障子に映《あた》った。河岸の白壁のところに見て来た光は、自分の部屋の黄ばんだ壁にもあった。それを眺めていると、仕事、仕事と言って、彼がアクセクしていることは、唯身内の者の為に苦労しているに過ぎないかとも思わせた。


「一寸俺は用達《ようたし》に行って来る。着物を出してくんナ」
 三吉は二階から下りて来て、身仕度《みじたく》を始めた。お倉は未だ話し込んでいた。お雪は白足袋《しろたび》の洗濯したのを幾足か取出して見て、
「一二度外へ行って来ると、もうそれは穿《は》かないんですから、幾足あったって堪《たま》りませんよ」
 こんなことを言って笑いながら、中でも好さそうなのを択《よ》って夫に渡した。三吉は無造作に綴合《とじあわ》せた糸を切って、縮んだ足袋を無理に自分の足に填《は》めた。
「姉さん」と三吉はコハゼを掛けながら、「満洲の方から御便は有りますか」
「ええ、無事で働いておりますそうです――皆さんにも宜《よろ》しく申上げるようにッて先頃も手紙が参りました」
「ウマくやってくれると可《よ》う御座んすがナア」
「さあ、私もそう思っています」
「まだ家の方へ仕送りをするというところまでいきませんかネ」
「どうして……でも、まあ彼方《あちら》に親切な方が有りまして、よく見て下さるそうです」
 頼りないお倉は「親切な」という言葉に力を入れ入れした。嫂を残して置いて、三吉は家を出た。
 森彦は旅舎《やどや》の方に居た。丁度弟が訪ねて行った時は、電話口から二階の部屋へ戻ったところで、一寸手紙を書くからと言いながら、机に対《むか》っていそがしそうに筆を走らせた。やがてその手紙を読返して見て、封をして、三吉の方へ向くと同時に手を鳴らした。
「これは急ぎの手紙ですから、直に出して下さい」
 と森彦は女中に言附けて置いて、それから弟の顔を眺めた。
「今日はすこし御願が有ってやって来ました」
 こういう三吉の意味を、森彦は直に読むような人であった。「まあ、待てよ」と起上《たちあが》って、戸棚《とだな》の中から新しい菓子の入った鑵《かん》を取出した。
「貴方の方で宗さんの分を立替えて置いて頂きたいもんですがナア」と三吉は切出した。
「ホ、お前の方でもそうか」と森彦は苦笑《にがわらい》して、「俺は又、お前の方で出来るだろうと思って、未だお俊の家へは送れないでいるところだ――困る時には一緒だナア」
 二人の話は宗蔵や実の家の噂に移って行った。
「真実《ほんと》に、宗蔵の奴は困り者だよ。人間だからああして生きていられるんだ。これがもし獣《けだもの》で御覧、あんな奴は疾《とっく》に食われて了《しま》ってるんだ」
「生きたくないと思ったって、生きるだけは生きなけりゃ成りません……宗さんのも苦しい生活ですネ」
「いえ、第一、彼奴《あいつ》の心得方が間違ってるサ。廃人なら廃人らしく神妙にして、皆なの言うことに従わんけりゃ成らん。どうかすると、彼奴は逆捩《さかねじ》を食わせる奴だ……だから世話の仕手も無いようなことに成って了う」
「一体、吾儕《われわれ》がこうして――殆《ほと》んど一生掛って――身内のものを助けているのはそれが果して好い事か悪い事か、私には解らなく成って来ました。貴方なぞはどう思いますネ」
 森彦は黙って弟の言うことを聞いていた。
「吾儕が兄弟の為に計ったことは、皆な初めに思ったこととは違って来ました。俊を学校へ入れたのは、彼女《あれ》に独立の出来る道を立ててやって、母親《おっか》さんを養わせる積りだったんでしょう。ところが、彼女は学校の教師なぞには向かない娘に育って了いました。姉さんだってもそうでしょう、弱い弱いで、可傷《いたわ》られるうちに、今では最早|真実《ほんと》に弱い人です。吾儕は長い間掛って、兄弟に倚凭《よりかか》ることを教えたようなものじゃ有りませんか……名倉の阿爺《おやじ》なぞに言わせると、吾儕が兄弟を助けるのは間違ってる。借
前へ 次へ
全33ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング