い凋落《ちょうらく》を傷《いた》むという風で、
「若い時は最早行って了《しま》った」と嘆息するように口ずさんだ。食卓の上には、妓の為に取寄せた皿もあった。年増は残った蒲鉾《かまぼこ》だのキントンだのを引寄せて、黙ってムシャムシャ食った。
 やがて十二時近かった。三吉は酔った甥《おい》が風邪《かぜ》を引かないようにと女中によく頼んで置いて、独《ひと》りで家まで車を命じた。女中や三人の妓は玄関まで見送りに出た。三吉が車に乗った時は、未だ女達の笑声が絶えなかった。
「叔父さん! 叔父さん!」


 すこし話したいことが有る。こういう森彦の葉書を受取って、三吉は兄の旅舎《やどや》を訪ねた。二階の部屋から見える青桐《あおぎり》の葉はすっかり落ちていた。
「来たか」
 森彦の挨拶はそれほど簡単なものであった。
 短く白髪を刈込んだ一人の客が、森彦と相対《さしむかい》に碁盤《ごばん》を置いて、煙管《きせる》を咬《くわ》えていた。この人は森彦の親友で、実《みのる》や直樹《なおき》の父親なぞと事業を共にしたことも有る。
「三吉。今一勝負済ますから、待てや。黒を渡すか、白を受取るかという天下分目のところだ」
「失礼します」
 こう兄と客とは三吉に言って、復た碁盤を眺《なが》めた。両方で打つ碁石は、二人の長い交際と、近づきつつある老年とを思わせるように、ポツリポツリと間を置いては沈んだ音がした。
 一石終った。客は帰って行った。森彦は弟の方へ肥った体躯《からだ》を向けた。
「葉書の用は他《ほか》でも無いがネ、どうも近頃正太のやつが遊び出したそうだテ。碌《ろく》に儲けもしないうちから、最早あの野郎《やろう》遊びなぞを始めてケツカル」
 こう森彦が言出したので、思わず三吉の方は微笑《ほほえ》んだ。
「実は、二三日前に豊世がやって来てネ、『困ったものだ』と言うから俺がよく聞いてみた。なんでも小金という芸者が有って、その女に正太が熱く成ってるそうだ。豊世の言うことも無理が無いテ。彼女《あれ》が塩瀬の大将に逢った時に、『橋本さんも少し気を付けて貰わないと――』という心配らしい話が有ったトサ。折角あそこまで漕《こ》ぎ着けたものだ。今信用を落しちゃツマラン。『叔父さんからでも注意して貰いたい』こう彼女《あれ》が言うサ」
「その女なら、私も此頃《こないだ》正太さんと一緒に一度|逢《あ》いました……あれを豊世さんが心配してるんですか。そんな危げのある女でも無さそうですがナア。私の見たところでは、お目出度いような人でしたよ」
「復た阿爺《おやじ》の轍《てつ》を履《ふ》みはしないか、それを豊世は恐れてる」
「しかし、兜町の連中なぞは酒席が交際場裏だと言う位です。塩瀬の大将だっても妾《めかけ》が幾人《いくたり》もあると言う話です。部下のものが飲みに行く位のことは何とも思ってやしないんでしょう。大将がそんなことを言いそうも無い……豊世さんの方で心配し過ぎるんじゃ有りませんか」
「俺は、まあ、何方《どっち》だか知らないが――」
「そんなことは放擲《うっちゃらか》して置いたら可いでしょう。そうホジクらないで……私に言わせると、何故《なぜ》そんなに遊ぶと責めるよりか、何故もっと儲けないと責めた方が可い」
 森彦は長火鉢の上で手を揉んだ。
「どうも彼《あれ》は質《たち》がワルいテ。すこしばかり儲けた銭で、女に貢《みつ》ぐ位が彼の身上《しんじょう》サ。こう見るのに、時々彼が口を開いて、極く安ッぽい笑い方をする……あんな笑い方をする人間は直ぐ他《ひと》に腹の底を見透されて了う……そこへ行くと、橋本の姉さんなり、豊世なりだ。余程彼よりは上手《うわて》だ。吾儕《われわれ》の親類の中で、彼の細君が一番エライと俺は思ってる。細君に心配されるような人間は高が知れてるサ」
「ですけれど――私は、貴方が言うほど正太さんを安くも見ていないし、貴方が買ってる程には、橋本の姉さんや豊世さんを見てもいません。丁度姉さんや豊世さんは貴方が思うような人達です。しかし、あの人達は自分で自分を買過ぎてやしませんかネ」
「そうサ。自分で高く買被《かいかぶ》ってるようなところは有るナ」
 兄は弟の顔をよく見た。
「女の方の病気さえなければ、橋本|父子《おやこ》に言うことは無い――それがあの人達の根本《おおね》の思想《かんがえ》です。だから、ああして女の関係ばかり苦にしてる。まだ他に心配して可いことが有りゃしませんか。達雄さんが女に弱くて、それで家を捨てるように成った――そう一途《いちず》にあの人達は思い込んで了うから困る」
 兄は、弟が来て、一体誰に意見を始めたのか、という眼付をした。
「しかし」と三吉はすこし萎《しお》れて、「正太さんも、仕事をするという質《たち》の人では無いかも知れませんナ」
「彼が相場で儲けたら、俺は御目に懸りたいよ」
「ホラ、去年の夏、近松の研究が有りましたあネ。丁度盆の芝居でしたサ。あの時は、正太さんも行き、俊も延も行きました。博多小女郎浪枕《はかたこじょろうなみまくら》。私はあの芝居を見物して帰って来て、復た浄瑠璃本《じょうるりぼん》を開けて見ました。宗七という男が出て来ます。優美|慇懃《いんぎん》なあの時代の浪華《なにわ》趣味を解するような人なんです。それでいて、猛烈な感情家でサ。長崎までも行って商売をしようという冒険な気風を帯びた男でサ。物に溺《おぼ》れるなんてことも、極端まで行くんでしょう……何処かこう正太さんは宗七に似たような人です。正太さんを見る度に、私はよくそう思い思いします――」
「彼の阿爺《おやじ》が宗七だ――彼は宗七第二世だ」
 兄弟は笑出した。
「それはそうと、俺の方でも呼び寄せて、彼によく言って置く。細君を心配させるようなことじゃ不可《いかん》からネ。お前からも何とか言って遣《や》ってくれ」と森彦が言った。
「去年の夏以来、私は意見をする権利が無いとつくづく思って来ました」と三吉は意味の通じないようなことを言って、笑って、「とにかく、謹み給え位のことは言って置きましょう」
 遠く満洲の方へ行った実の噂、お俊の縁談などをして、弟は帰った。


 正太は兜町の方に居た。塩瀬の店では、皆な一日の仕事に倦《う》んだ頃であった。テエブルの周囲《まわり》に腰掛けるやら、金庫の前に集るやらして、芝居見物の話、引幕の相談なぞに疲労《つかれ》を忘れていた。煙草のけぶりは白い渦を巻いて、奥の方まで入って行った。
 土蔵の前には明るい部屋が有った。正太は前に机を控えて、幹部の人達と茶を喫《の》んでいた。小僧が郵便を持って来た。正太|宛《あて》だ。三吉から出した手紙だ。家の方へ送らずに、店に宛てて寄《よこ》すとは。不思議に思いながら、開けて見ると、内には手紙も無くて、水天宮の護符《まもりふだ》が一枚入れてあった。
 正太はその意味を読んだ。思わず拳《こぶし》を堅めてペン軸の飛上るほど机をクラわせた。
「橋本君、そりゃ何だネ」と幹部の一人が聞いた。
「こういう訳サ」正太は下口唇を噛《か》みながら笑った。「昨日一人の叔父が電話で出て来いというから、僕が店から帰りがけに寄ったサ。すると、例の一件ネ、あの話が出て、可恐《おそろ》しい御目玉を頂戴した。この叔父の方からも、いずれ何か小言が出る。それを僕は予期していた。果してこんなものを送って寄した」
「何の洒落《しゃれ》だい」
「こりゃ、君、僕に……溺死《できし》するなという謎《なぞ》だネ」
「意見の仕方にもいろいろ有るナア」
 幹部の人達は皆な笑った。
 その日、正太は種々な感慨に耽《ふけ》った。不取敢《とりあえず》叔父へ宛てて、自分もまた男である、素志を貫かずには置かない、という意味を葉書に認めた。仕事をそこそこにして、横手の格子口から塩瀬の店を出た。細い路地の角のところに、牛乳を温めて売る屋台があった。正太はそれを一合ばかり飲んで、電車で三吉の家の方へ向った。
 叔父の顔が見たくて、寄ると、丁度長火鉢の周囲《まわり》に皆な集っていた。正太は叔父の家で、自分の妻とも落合った。
「正太さん、妙なものが行きましたろう」
 と三吉は豊世やお雪の居るところで言って、笑って、他の話に移ろうとした。豊世は叔父と相対《さしむかい》の席を夫に譲った。自分の敷いていた座蒲団を裏返しにして、夫に勧めた。
「叔父さん、確かに拝見しました」と正太が言った。「私から御返事を出しましたが、それは未だ届きますまい」
 豊世は夫の方を見たり、叔父や叔母の方を見たりして、「私は先刻《さっき》から来て坐り込んでいます……ねえ叔母さん……何か私が言うと、宅は直ぐ『三吉叔父さんの許《ところ》へ行って聞いて御覧』なんて……」
 こんな話を、豊世も諄《くど》くはしなかった。彼女は夫から巻煙草を貰って、一緒に睦《むつ》まじそうに吸った。
「バア」
 三吉は傍へ来た種夫の方へ向いて、可笑《おかし》な顔をして見せた。
「叔母さん、私も子供でも有ったら……よくそう思いますわ」と豊世が言った。
「豊世さんの許でも、御一人位御出来に成っても……」とお雪は茶を入れて款待《もてな》しながら。
「御座いますまいよ」豊世は萎《しお》れた。
「医者に診《み》て貰ったら奈何《いかが》です」と言って、三吉は種夫を膝の上に乗せた。
「宅では、私が悪いから、それで子供が無いなんて申しますけれど……何方《どっち》が悪いか知れやしません」
「俺は子供が無い方が好い」と正太は何か思出したように。
「あんな負惜みを言って」
 と豊世が笑ったので、お雪も一緒に成って笑った。
 豊世は一歩《ひとあし》先《さき》へ帰った。正太は叔父に随《つ》いて二階の楼梯《はしごだん》を上った。正太は三吉から受取った手紙の礼を言った後で、
「豊世なぞは解らないから困ります。そりゃ芸者にもいろいろあります。ミズの階級も有ります。しかし、叔父さん、土地で指でも折られる位のものは、そう素人《しろうと》が思うようなものじゃ有りません。あの社会はあの社会で、一種の心意気というものが有ります。それが無ければ、誰が……教育あり品性ある妻を置いて……」
「いえ、僕はネ、君が下宿時代のことを忘れさえしなけりゃ――」
「難有《ありがと》う御座います。あの御守は紙入の中に入れて、こうしてちゃんと持ってます。今日は大に考えました」
 こう言って、正太は激昂《げっこう》した眼付をした。彼は、真面目《まじめ》でいるのか、不真面目でいるのか、自分ながら解らないように思った。「とにかく肉的なと言ったら、私は素人の女の方がどの位肉的だか知れないと思います……」こんなことまで叔父に話して、微笑んで見せた。
「正太さん、何故君はそんなに皆なから心配されるのかね」
「どうも……叔父さんにそう聞かれても困ります」
「世の中には、君、随分仕たいことを仕ていながら、そう心配されない人もありますぜ。君のようにヤイヤイ言われなくても可《よ》さそうなものだ……何となく君は危いような感じを起させる人なんだネ」
「それです。塩瀬の店のものもそう言います――何処か不安なところが有ると見える――こりゃ大に省《かえり》みなけりゃ不可《いかん》ぞ」
 その時、お雪が階下《した》から上って来て声を掛けた。
「父さん、※[#「※」は「ひとがしら+ナ」、108−17]が見えました」
 親戚の客があると聞いて、正太は叔父と一緒に二階を下りた。
「正太さん、この方がお福さんの旦那さんです」
 商用の為に一寸上京した勉を、三吉は甥に紹介した。勉は名倉の母からの届け物と言って、鯣《するめ》、数の子、鰹節《かつおぶし》などの包をお雪の方へ出した。


 大掃除の日は、塵埃《ごみ》を山のように積んだ荷馬車が三吉の家の前を通り過ぎた。畳を叩《たた》く音がそこここにした。長い袖の着物を着て往来を歩くような人達まで、手拭《てぬぐい》を冠って、煤《すす》と埃《ほこり》の中に寒い一日を送った。巡査は家々の入口に検査済の札を貼付《はりつ》けて行った。
 早く暮れた。お雪は汚《よご》れた上掩《うわッぱり》を脱いで、子供や下婢《お
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