一同を集めて、一緒に別離の茶を飲んだ。
復た鶏が鳴いた。夜も白々《しらじら》明け放れるらしかった。
「皆な、屋外《そと》へ出ちゃ不可《いけない》よ……家に居なくちゃ不可よ……」
実は、屋外まで見送ろうとする家のものを制して置いて、独りで門を出た。強い身体と勇気とは猶《なお》頼めるとしても、彼は年五十を超《こ》えていた。懐中《ふところ》には、神戸の方に居るという達雄の宿まで辿《たど》りつくだけの旅費しか無かった。満洲の野は遠い。生きて還《かえ》ることは、あるいは期し難かった。こうして雄々しい志を抱《いだ》いて、彼は妻子の住む町を離れて行った。
五
お雪は張物板を抱いて屋並に続いた門の外へ出た。三吉は家に居なかった。町中に射す十月下旬の日をうけて、門前に立掛けて置いた張物板はよく乾いた。襷掛《たすきがけ》で、お雪がそれを取込もうとしていると、めずらしい女の客が訪ねて来た。
「まあ、豊世さん――」
お雪は襷を釈《はず》した。張物もそこそこにして、正太の細君を迎えた。
「叔母さん、真実《ほんと》にお久し振ですねえ」
豊世は入口の庭で言って、絹の着物の音をさせながら上った。
久し振の上京で、豊世は叔母の顔を見ると、何から言出して可いか解らなかった。坐蒲団《ざぶとん》を敷いて坐る前に、お房やお菊の弔《くや》みだの、郷里《くに》に居る姑《しゅうとめ》からの言伝《ことづて》だの、夫が来てよく世話に成る礼だのを述べた。
「叔母さん、私もこれから相場師の内儀《おかみ》さんですよ」
と軽く笑って、豊世は自分で自分の境涯の変遷に驚くという風であった。
「種ちゃん、御辞儀は?」とお雪は眼を円《まる》くして来た子供に言った。
「種ちゃんも大きく御成《おなん》なさいましたねえ」
「豊世叔母さんだよ、お前」
「種ちゃん、一寸《ちょっと》来て御覧なさい。叔母さんを覚えていますか。好い物を進《あ》げますよ」
種夫は人見知りをして、母の背後《うしろ》に隠れた。
「種ちゃん幾歳《いくつ》に成るの?」と豊世が聞いた。
「最早《もう》、貴方三つに成りますよ」
「早いもんですねえ。自分達の年をとるのは解りませんが、子供を見るとそう思いますわ」
その時、壁によせて寝かしてあった乳呑児《ちのみご》が泣出した。お雪は抱いて来て、豊世に見せた。
「これが今度お出来なすった赤さん?」と豊世が言った。「先《せん》には女の御児さんばかりでしたが、今度は又、男の御児さんばかし……でも、叔母さんはこんなにお出来なさるから宜《よ》う御座んすわ」
「幾ちゃん」とお雪は顧みて呼んだ。
お幾はお雪が末の妹で、お延と同じ学校に入っていた。丁度、寄宿舎から遊びに来た日で、客の為に茶を入れて出した。
「先《せん》によくお目に掛った方は?」
「愛ちゃんですか。あの人は卒業して国へ帰りました。今に、お嫁さんに成る位です」
「そうですかねえ。お俊ちゃんなぞが最早立派なお嫁さんですものねえ」
しばらく静かな山の中に居て単調な生活に飽いて来た豊世には、見るもの聞くものが新しかった。正太も既に一戸を構えた。川を隔てて、三吉とはさ程遠くないところに住んでいた。豊世は多くの希望《のぞみ》を抱いて、姑の傍を離れて来たのである。
その日、豊世はあまり長くも話さなかった。塩瀬の大将の細君という人にも逢《あ》って来たことや、森彦叔父の旅舎《やどや》へも顔を出したことなぞを言った。これから一寸買物して帰って、早く自分の思うように新しい家を整えたいとも言った。
「叔母さん、どんなに私は是方《こっち》へ参るのが楽みだか知れませんでしたよ。お近う御座いますから、復《ま》たこれから度々《たびたび》寄せて頂きます」
こう豊世は優しく言って、心忙《こころぜ》わしそうに帰って行った。お雪は張物板を取込みに出た。
暗くなってから、三吉は帰って来た。彼は新規な長い仕事に取掛った頃であった。遊び疲れて早く寝た子供の顔を覗《のぞ》きに行って、それから洋服を脱ぎ始めた。お雪は夫の上衣《うわぎ》なぞを受取りながら、
「先刻《さっき》、豊世さんが被入《いら》ッしゃいましたよ。橋本の姉さんから小鳥を頂きました」
「へえ、そいつは珍しい物を貰ったネ。豊世さん、豊世さんッて、よくお前は噂《うわさ》をしていたっけが。どうだね、あの人の話は」
「私なぞは……ああいう人の傍へは寄れない」
「よく交際《つきあ》って見なけりゃ解らないサ。なにしろ親類が川の周囲《まわり》へ集って来たのは面白いよ」
三吉は白シャツまで脱いだ。そこへ正太がブラリと入って来た。芝居の噂や長唄《ながうた》の会の話なぞをした後で、
「叔父さん、私は未だ御飯前なんです」
こんなことを言出した。その辺へ案内して、初冬らしい夜を語りたいというのであった。
「オイ、お雪、今の洋服を出してくれ。正太さんが飯を食いに行くと言うから、俺《おれ》も一緒に話しに行って来る」
「男の方というものは、気楽なものですねえ」
お雪は笑った。三吉は一旦《いったん》脱いだ白シャツに復た手を通して、服も着けた。正太は紺色の長い絹を襟巻《えりまき》がわりにして、雪踏《せった》の音なぞをさせながら、叔父と一緒に門を出た。
「何となく君は兜町《かぶとちょう》の方の人らしく成ったネ。時に、正太さん、君は何処《どこ》へ連れて行く積りかい」
「叔父さん、今夜は私に任せて下さい。種々《いろいろ》御世話にも成りましたから、今夜は私に奢《おご》らせて下さい」
こう二人は話しながら歩いた。
町々の灯は歓楽の世界へと正太の心を誘うように見えた。昂《あが》ったとか、降《さが》ったとか言って、売ったり買ったりする取引場の喧囂《けんごう》――浮沈《うきしずみ》する人々の変遷――狂人《きちがい》のような眼――激しく罵《ののし》る声――そういう混雑の中で、正太は毎日のように刺激を受けた。彼は家にジッとしていられなかった。夜の火をめがけて羽虫が飛ぶように、自然と彼の足は他《ひと》の遊びに行く方へ向いていた。電車で、ある停留場まで乗って、正太は更に車を二台命じた。車は大きな橋を渡って、また小さな橋を渡った。
風は無いが、冷える晩であった。三吉は正太に案内されて、広い静かな座敷へ来ていた。水に臨んだ方は硝子戸《ガラスど》と雨戸が二重に閉めてあって、それが内の障子の嵌硝子《はめガラス》から寒そうに透けて見えた。
女中が火を運んで来た。洋服で震えて来た三吉は、大きな食卓の側に火鉢《ひばち》を擁《かか》えて、先《ま》ず凍えた身体を温めた。
正太は料理を通して置いて、
「それからねえ、姉さん、小金さんに一つ掛けて下さい」
「小金さんは今、彼方《あちら》の御座敷です」
「『先程は電話で失礼』――そう仰《おっしゃ》って下されば解ります」
それを聞いて、女中は出て行った。
「叔父さん、こうして名刺を一枚出しさえすれば、何処《どこ》へ行っても通ります――塩瀬の店は今兜町でも売《うれ》ッ子なんですからネ」と正太は、紙入から自分の名刺を取出して、食卓の上に置いて見せた。
正太の話は兜町の生活に移って行った。漸《ようや》く塩瀬の大将に知られて重なる店員の一人と成ったこと、その為には随分働きもしたもので、他《ひと》の嫌《いや》がる帳簿は二晩も寝ずに整理したことを叔父に話した。彼は又、相場師生活の一例として、仕立てたばかりの春衣《はるぎ》が仕附糸《しつけいと》のまま、年の暮に七つ屋の蔵へ行くことなどを話した。
「そう言えば、今は実に可恐《おそろ》しい時代ですネ」と正太は思出したように、「此頃《こないだ》、私がお俊ちゃんの家へ寄って、『鶴ちゃん、お前さんは大きく成ったらどんなところへお嫁に行くネ』と聞きましたら――あんな子供がですよ――軍人さんはお金が無いし、お医者さんはお金が有っても忙しいし、美《い》い着物が着られてお金があるから大きな呉服屋さんへお嫁に行きたいですト――それを聞いた時は、私はゾーとしましたネ」
こんな話をしているうちに、料理が食卓の上に並んだ。小金が来た。小金は三吉に挨拶《あいさつ》して、馴々《なれなれ》しく正太の傍へ寄った。親孝行なとでも言いそうな、温順《おとな》しい盛りの年頃の妓《おんな》だ。
「橋本さん、老松《おいまつ》姐《ねえ》さんもここへ呼びましょう――今、御座敷へ来てますから」
と言って、小金は重い贅沢《ぜいたく》な着物の音をさせながら出て行った。
土地に居着《いつき》のものは、昔の深川芸者の面影《おもかげ》がある。それを正太は叔父に見て貰いたかった。こういうところへ来て、彼は江戸の香を嗅《か》ぎ、残った音曲を耳にし、通人の遺風を楽しもうとしていた。
小金、老松、それから今一人の年増が一緒に興を添えに来た。老松は未だ何処かに色香の名残《なごり》をとどめたような老妓で、白い、細い、指輪を嵌《は》めた手で、酒を勧《すす》めた。
「老松さん、今夜はこういう客を連れて来ました」と正太が言った。「御馳走《ごちそう》に何か面白い歌を聞かせて進《あ》げて下さい」
老松は三吉の方を見て、神経質な額と眼とで一寸《ちょっと》挨拶した。
「どうです、この二人は――何方《どっち》がこれで年長《としうえ》と見えます」と復た正太が言った。
「老松姐さん、私は是方《こちら》の方がお若いと思うわ」と小金が三吉を指して見せた。
「私もそう思う」と老松は三吉と正太とを見比べた。
「ホラ――ネ。皆なそう言う」と正太は笑って、「これは私の叔父さんですよ」
「是方《こちら》が橋本さんの叔父さん?」老松は手を打って笑った。
「叔父さんは好かった」と小金と老松の間に居る年増《としま》も噴飯《ふきだ》した。
「真実《ほんと》の叔父さんだよ」と正太は遮《さえぎ》ってみたが、しかし余儀なく笑った。
「叔父さん! 叔父さん!」
老松や小金はわざとらしく言った。皆な三吉の方へ向いて、一つずつ御辞儀した。そして、クスクス笑った。三吉も笑わずにいられなかった。
「私の方が、これで叔父さんよりは老《ふ》けてるとみえる」と正太が言った。
小金は肥った手を振って、「そんな嘘《うそ》を吐《つ》かなくっても宜《よ》う御座んすよ。真実《ほんと》に、橋本さんは担《かつ》ぐのがウマいよ」
「叔父さん、へえ、御酌」と老松は銚子を持ち添えて、戯れるように言った。
「私にも一つ頂かせて下さいな」と年増は寒そうにガタガタ震えた。
電燈は花のように皆なの顔に映った。長い夜の時は静かに移り過ぎた。硝子戸の外にある石垣の下の方では、音のしない川が流れて行くらしかった。老松は好い声で、浮々とさせるような小唄を歌った。正太の所望で、三人の妓は三味線の調子を合せて、古雅なメリヤス物を弾《ひ》いた。正太は、酒はあまり遣《や》らない方であるが面長な渋味のある顔をすこし染めて、しみじみとした酔心地に成った。
「貴方。何かお遣《や》り遊ばせな」と老松が三吉の傍に居て言った。
「私ですか」と三吉は笑って、「私は唯こうして拝見しているのが楽みなんです」
老松は冷やかに笑った。
「叔父さん、貴方の前ですが……ここに居る金ちゃんはネ、ずっと以前にある友達が私に紹介してくれた人なんです……私は未だ浪人していましたろう、あの時分この下の川を蒸汽で通る度に、是方《こっち》の方を睨んでは、早く兜町の人に成れたら、そう思い思いしましたよ……」
「ヨウヨウ」という声が酒を飲む妓達の間に起った。
「橋本さん」と老松は手を揉《も》んで、酒が身体《からだ》にシミルという容子《ようす》をした。「貴方――早く儲《もう》けて下さいよ」
次第に周囲《あたり》はヒッソリとして来た。正太は帰ることを忘れた人のようであった。叔父が煙草を燻《ふか》している前で、正太は長く小金の耳を借りた。
「私には踊れないんですもの」と小金は、終《しまい》に、他《ひと》に聞えるように言った。
酔に乗じた老松の端唄《はうた》が口唇《くちびる》を衝《つ》いて出た。紅白粉《べにおしろい》に浮身を窶《やつ》すものの早
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