運んで来た。一番いける口の榊は、種々な意味で祝盃《しゅくはい》を挙げ始めた。
「姉さんにも一つ進《あ》げましょう」と榊は女中へ盃を差した。「どうです、僕等はこれで何商売と見えます?」
 女中は盃を置いて、客の様子を見比べた。
「私は何と見えます?」と正太が返事を待兼ねるように言った。
「さあ、御見受申したところ……袋物でも御|商《あきな》いに成りましょうか」
「オヤオヤ、未だ素人《しろうと》としか見られないか」と正太は頭を掻《か》いた。
 榊も噴飯《ふきだ》した。「姉さん、この二人は株屋に成りたてなんです。まだ成りたてのホヤホヤなんです」
「あれ、兜町の方でいらッしゃいましたか。あちらの方は、よく姐《ねえ》さん方が大騒ぎを成さいます」
 こう女中は愛想よく答えたが、よくある客の戯れという風に取ったらしかった。女中は半信半疑の眼付をして意味もなく、軽く笑った。
 知らない顔の客のことで、口を掛ければ直ぐに飛んで来るような、中年増《ちゅうどしま》の妓《おんな》が傍へ来て、先ず酒の興を助けた。庭を隔てて明るく映る障子の方では、放肆《ほしいまま》な笑声が起る。盛んな三味線の音は水に響いて楽しそうに聞える。全盛を極める人があるらしい。何時《いつ》の間にか、榊や正太は腰の低い「幇間《たいこもち》」で無かった。意気|昂然《こうぜん》とした客であった。
「向うの座敷じゃ、大《おおい》にモテるネ」
 と榊は正太に言った。ここにも二人は言うに言われぬ侮辱を感じた。それに、扱いかねている女中の様子と、馴染の無い客に対する妓の冷淡とが、何となく二人の矜持《ほこり》を傷《きずつ》けた。殊に、榊は不愉快な眼付をして、楽しい酒の香を嗅《か》いだ。
「貴方《あなた》一つ頂かして下さいな」
 とその中年増が、自信の無い眼付をして、盃を所望した。世に後《おく》れても、それを知らずにいるような人で、座敷を締める力も無かった。
 そのうちに、今一人若い妓《おんな》が興を助けに来た。歌が始まった。
「姐さん、一つ二上《にあが》りを行こう」
 と言って、正太は父によく似た清《すず》しい、錆《さび》の加わった声で歌い出した。
「好い声だねえ。橋本君の唄《うた》は始めてだ」と榊が言った。
「叔父さんの前で、私が歌ったのも今夜始めてですね」と正太は三吉の方を見て微笑《ほほえ》んだ。
「小泉君の酔ったところを見たことが無い――一つ酔わせなけりゃ不可《いけない》」と榊が盃を差した。
「すこし御酔いなさいよ。貴方」と中年増の妓が銚子《ちょうし》を持添えて勧めた。
 三吉は酒が発したと見えて、顔を紅くしていた。それでいながら、妙に醒《さ》めていた。彼は酔おうとして、いくら盃を重ねてみても、どうしても酔えなかった。
 唯《ただ》、夕飯の馳走《ちそう》にでも成るように、心易《こころやす》い人達を相手にして、談《はな》したり笑ったりした。
「是方《こちら》は召上らないのね」
 と若い妓が中年増に言った。
 夜が更《ふ》けるにつれて、座敷は崩《くず》れるばかりであった。「何か伺いましょう」とか、「心意気をお聞かせなさいな」とか、中年増は客に対《むか》って、ノベツに催促した。若い方の妓は、懐中《ふところ》から小さな鏡を取出して、客の見ている前で顔中|拭《ふ》き廻した。
 榊は大分酔った。若い方が御辞儀をして帰りかける頃は、榊は見るもの聞くもの面白くないという風で、面《ま》のあたりその妓を罵《ののし》った。そして、貰って帰って行った後で、腐った肉にとまる蠅のように言って笑った。折角《せっかく》楽みに来ても、楽めないでいるような客の前には、中年の女が手持無沙汰《てもちぶさた》に銚子を振って見て、恐れたり震えたりした。
 酒も冷く成った。
 ボーンという音が夜の水に響いて聞えた。仮色《こわいろ》を船で流して来た。榊は正太の膝を枕にして、互に手を執《と》りながら、訴えるような男や女の作り声を聞いた。三吉も横に成った。
 三人がこの部屋を離れた頃は、遅かった。屋外《そと》へ出て、正太は独語《ひとりごと》のように、遣瀬《やるせ》ない心を自分で言い慰めた。
「今に、ウンと一つ遊んで見せるぞ」
「小泉君、君は帰るのかい……野暮臭い人間だナア」
 と榊は正太の手を引いて、三吉に別れて行った。


 三吉は森彦から手紙を受取った。森彦の書くことは、いつも簡短である。兄弟で実の家へ集まろう、実が今後の方針に就《つ》いて断然たる決心を促そう、と要領だけを世慣れた調子で認《したた》めて、猶《なお》、物のキマリをつけなければ、安心が出来ないかのように書いて寄《よこ》した。
 弟達は兄を思うばかりで無かった。度々《たびたび》の兄の失敗に懲りて、自分等をも護らなければ成らなかった。で、雨降揚句の日に、三吉も兄の家を指して出掛けた。
 沼のように湿気の多い町。沈滞した生活。溝《どぶ》は深く、道路《みち》は悪く、往来《ゆきき》の人は泥をこねて歩いた。それを通り越したところに、引込んだ閑静な町がある。門構えの家が続いている。その一つに実の家族が住んでいた。
「三吉叔父さんが被入《いら》しった」
 とお俊が待受顔に出て迎えた。お延も顔を出した。
「森彦さんは?」
「先刻《さっき》から来て待っていらしッてよ」
 とお俊は玄関のところで挨拶した。彼女は大略《おおよそ》その日の相談を想像して、心配らしい様子をしていた。
「鶴《つう》ちゃん、御友達の許《ところ》へ遊びに行ってらッしゃい」お俊は独《ひと》りで気を揉《も》んだ。
「そうだ、鶴ちゃんは遊びに行くが可い」
 とお倉も姉娘の後に附いて言った。「こういう時には、延ちゃんも気を利《き》かして、避けてくれれば可《い》いに」とお俊はそれを眼で言わせたが、お延にはどうして可いか解らなかった。この娘は、三吉叔父の方から移って間もないことで、唯マゴマゴしていた。
 実は部屋を片付けたり、茶の用意をしたりして、三吉の来るのを待っていた。三人の兄弟は、会議を開く前に、集って茶を嚥《の》んだ。その時実は起《た》って行って、戸棚《とだな》の中から古い箱を取出した。塵埃《ほこり》を払って、それを弟の前に置いた。
「これは三吉の方へ遣《や》って置こう」
 と保管を托《たく》するように言った。父の遺筆である。忠寛を記念するものは次第に散って了った。この古い箱一つ残った。
「どれ、話すことは早く話して了おう」と森彦が言出した。
 お俊は最早《もう》気が気でなかった。母は、と見ると、障子のところに身を寄せて、聞耳を立てている。従姉妹《いとこ》は長火鉢《ながひばち》の側に俯向《うつむ》いている。彼女は父や叔父達の集った部屋の隅《すみ》へ行って、自分の机に身を持たせ掛けた。後日のために、よく話を聞いて置こうと思った。
「そんなトロクサいことじゃ、ダチカン」と森彦が言った。「満洲行と定《き》めたら、直ぐに出掛ける位の勇気が無けりゃ」
「俺も身体は強壮《じょうぶ》だしナ」と実はそれを受けて、「家の仕末さえつけば、明日にも出掛けたいと思ってる」
「後はどうにでも成るサ。私《わし》も居《お》れば、三吉も居る」
「むう――引受けてくれるか――難有《ありがた》い。それをお前達が承知してくれさえすれば、俺は安心して発《た》てる」
 こういう大人同志の無造作な話は、お俊を驚かした。彼女は父の方を見た。父は細かく書いた勘定書を出して叔父達に示した。多年の間森彦の胸にあったことは、一時に口を衝《つ》いて出て来た。この叔父は「兄さん」という言葉を用いていなかった。「お前が」とか、「お前は」とか言った。そして、声を低くして、父の顔色が変るほど今日までの行為《おこない》を責めた。
 お俊はどう成って行くことかと思った。堪忍《かんにん》強い父は黙って森彦叔父の鞭韃《むち》を受けた。この叔父の癖で、言葉に力が入り過ぎるほど入った。それを聞いていると、お俊は反《かえ》って不幸な父を憐《あわれ》んだ。
「俊、先刻《さっき》の物をここへ出せや」
 と父に言われて、お俊はホッと息を吐《つ》いた。彼女は母を助けて、用意したものを奥の部屋の方へ運んだ。
「さあ、何物《なんに》もないが、昼飯をやっとくれ」と実は家長らしい調子に返った。
 三人の兄弟は一緒に食卓に就いた。口に出さないまでも、実にはそれが別離《わかれ》の食事である。箸《はし》を執ってから、森彦も悪い顔は見せなかった。
「むむ、これはナカナカ甘《うま》い」と森彦は吸物の出来を賞《ほ》めて、気忙《せわ》しなく吸った。
「さ、何卒《どうか》おかえなすって下さい」と、旧い小泉の家風を思わせるように、お倉は款待《もてな》した。
 皆な笑いながら食った。
 間もなく森彦、三吉の二人は兄の家を出た。半町ばかり泥濘《ぬかるみ》の中を歩いて行ったところで、森彦は弟を顧みて、
「あの位、俺が言ったら、兄貴もすこしはコタえたろう」
 と言ってみたが、その時は二人とも笑えなかった。実の家族と、病身な宗蔵とは、復た二人の肩に掛っていた。


「鶴ちゃん」
 とお俊は、叔父達の行った後で、探して歩いた。
「父さんが明日|御出発《おたち》なさるというのに……何処へ遊びに行ってるんだろうねえ……」
 と彼女は身を震わせながら言ってみた。一軒心当りの家へ寄って、そこで妹が友達と遊んで帰ったことを聞いた。急いで自分の家の方へ引返して行った。
 こんなに急に父の満洲行が来ようとは、お俊も思いがけなかった。家のものにそう委《くわ》しいことも聞かせず、快活らしく笑って、最早|旅仕度《たびじたく》にいそがしい父――狼狽《ろうばい》している母――未だ無邪気な妹――お俊は涙なしにこの家の内の光景《ありさま》を見ることが出来なかった。
 長い悲惨な留守居の後で、漸く父と一緒に成れたのは、実に昨日のことのように娘の心に思われていた。復た別れの日が来た。父を逐《お》うものは叔父達だ。頼りの無い家のものの手から、父を奪うのも、叔父達だ。この考えは、お俊の小さな胸に制《おさ》え難い口惜《くや》しさを起させた。可厭《いとわ》しい親戚の前に頭を下げて、母子《おやこ》の生命を托さなければ成らないか、と思う心は、一家の零落を哀しむ心に混って、涙を流させた。
 叔父達に反抗する心が起った。彼女は余程自分でシッカリしなければ成らないと思った。弱い、年をとった母のことを考えると、泣いてばかりいる場合では無いとも思った。その晩は母と二人で遅くまで起きて、不幸な父の為に旅の衣服などを調《ととの》えた。
「母親《おっか》さん、すこし寝ましょう――どうせ眠られもしますまいけれど」
 と言って、お俊は父の側に寝た。
 紅い、寂しい百日紅《さるすべり》の花は、未だお俊の眼にあった。彼女は暗い部屋の内に居ても、一夏を叔父の傍で送ったあの郊外の家を見ることが出来た。こんなに早く父に別れるとしたら何故父の傍に居なかったろう、何故叔父を遠くから眺めて置かなかったろう。
「可厭《いや》だ――可厭だ――」
 こう寝床の中で繰返して、それから復た種々な他の考えに移って行った。父も碌に眠らなかった。何度も寝返を打った。
 未だ夜の明けない中に、実は寝床《とこ》を離れた。つづいてお倉やお俊が起きた。
「母親さん、鶏が鳴いてるわねえ」
 と娘は母に言いながら、寝衣《ねまき》を着更《きが》えたり、帯を〆《しめ》たりした。
 赤い釣洋燈《つりランプ》の光はションボリと家の内を照していた。台所の方では火が燃えた。やがてお倉は焚落《たきおと》しを十能に取って、長火鉢の方へ運んだ。そのうちにお延やお鶴も起きて来た。
 小泉の家では、先代から仏を祭らなかった。「御霊様《みたまさま》」と称《とな》えて、神棚だけ飾ってあった。そこへ実は拝みに行った。父忠寛は未だその榊《さかき》の蔭に居て、子の遠い旅立を送るかのようにも見える、実は柏手《かしわで》を打って、先祖の霊に別離《わかれ》を告げた。
 お倉やお俊は主人の膳《ぜん》を長火鉢の側に用意した。暗い涙は母子《おやこ》の頬《ほお》を伝いつつあった。実は
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