なを待受けていた。そこは、往時《もと》女髪結で直樹の家へ出入して、直樹の母親の髪を結ったという老婆《ばあさん》が見つけてくれた家であった。その老婆の娘で、直樹の父親の着物なぞを畳んだことのある人が、今では最早《もう》十五六に成る娘から「母親《おっか》さん」と言われる程の時代である。極《ご》く近く住むところから、その人達が土瓶《どびん》や湯沸《ゆわかし》を提《さ》げて見舞に来てくれた。お雪は手拭《てぬぐい》を冠ったり脱《と》ったりした。
 静かな郊外に住慣れたお雪の耳には、種々な物売の声が賑《にぎや》かに聞えて来た。勇ましい鰯売《いわしうり》の呼声、豆腐屋の喇叭《らっぱ》、歯入屋の鼓、その他郊外で聞かれなかったようなものが、家の前を通る。表を往《い》ったり来たりする他の主婦《かみさん》で、彼女のように束髪にした女は、殆《ほと》んど無いと言っても可《い》い。この都会の流行に後《おく》れまいとする人々の髪の形が、先《ま》ず彼女を驚かした。
 実の家からは、例の箪笥《たんす》や膳箱《ぜんばこ》などを送り届けて来た。いずれも東京へ出て来てからの実の生活の名残だ。大事に保存された古い器物ばかりだ。
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