時《むかし》恋しい人の前に、三吉は考え沈んで、頭脳《あたま》の痛くなるような電車の響を聞いていた。先生の書いたもので思出す深夜の犬の鳴声――こんな突然《だしぬけ》に起って来る記憶が、懐旧の情に混って、先生のことともつかず、自分のことともつかず、丁度電車の窓から見える人家の窓や柳の葉のように、三吉の胸に映ったり消えたりした。
そのうちに、三吉は大島先生の側へ行って腰掛けることが出来た。先生は重い体躯《からだ》を三吉の方へ向けて、手を執《と》らないばかりの可懐《なつか》しそうな姿勢を示したが、昔のようには語ろうとして語られなかった。
「オオ、鍛冶橋《かじばし》に来た」
と先生はあわただしく起立《たちあが》って、窓から外の方の市街を見た。
「もう御降りに成るんですか」と三吉も起上った。
「小泉君、ここで失敬します」
という言葉を残して置いて、大島先生は電車から降りた。
「吾儕《われわれ》に媒酌人《なこうど》をしてくれた先生だったけナア」
こう思って、三吉が見送った時は、酒の香にすべての悲哀《かなしみ》を忘れようとするような寂しい、孤独な人が連の紳士と一緒に柳の残っている橋の畔《たもと
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