《す》いたところへ行って腰掛けた。三吉と反対の側に乗ったが、連があるのと、客を隔てたのとで、互に言葉も替《かわ》さなかった。二人は黙って乗った。
大島先生は、一夏三吉が苦しんだ熱い思を、幾夏も経験したような人であった。細君に死別れてから、先生は悲しい噂《うわさ》ばかり世に伝えられるように成った。改革者のような熱烈な口調で、かつて先生が慷慨《こうがい》したり痛嘆したりした声は、皆な逆に先生の方へ戻って行った。正義、愛、美しい思想――そういう先生の考えたことや言ったことは、残らず葬られた。正義も夢、愛も夢、美しい思想も夢の如《ごと》くであった。唯《ただ》、先生には変節の名のみが残った。昔親切によく世話をして遣《や》った多くの後輩の前にも、先生は黙って首を垂れて、「鞭韃《むちう》て」と言わないばかりの眼付をする人に成った。旧《ふる》い友達は大抵先生を捨てた。先生も旧い友達を捨てた。
以前に比べると、大島先生はずっと肥った。服装《みなり》なども立派に成った。しかし以前の貧乏な時代よりは、今日の方が幸福《しあわせ》であるとは、先生の可傷《いたま》しい眼付が言わなかった。
この縁故の深い、旧
前へ
次へ
全324ページ中93ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング