子のところから離れなかった。
「オイ、菓子でもくれて遣りナ」
と夫に言われて、お雪は中の部屋にある仏壇の扉《と》を開けた。そして、新しい位牌《いはい》に供えてあった物を取出した。近所の子供が礼を言って、馳出《かけだ》して行った後でも、まだお雪は耳を澄まして、小さな下駄の音に聞入った。
女学生風の袴を着けた娘がそこへ帰って来た。お延《のぶ》と言って、郷里《くに》から修行に出て来た森彦の総領――三吉が二番目の兄の娘である。この娘は叔父の家から電車で学校へ通っていた。
「兄さん、被入《いらっ》しゃい」
とお延は正太に挨拶《あいさつ》した。従兄妹《いとこ》同志の間ではあるが日頃正太のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいた。
毎日のようにお雪は子供の墓の方へ出掛けるので――尤《もっと》も、寺も近かったから――その日もお延を連れて行くことにした。後に残った三吉と正太とは、互に足を投出したり、寝転んだりして話した。
その時まで、正太は父の達雄のことに就《つ》いて、何事《なんに》も話さなかった。遽《にわ》かに、彼は坐り直した。
「まだ叔父さんにも御話しませんでしたが、漸く吾家《うち》の阿父
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