「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実《ほんと》にツマリません」とお雪が答える。
「此頃《こないだ》は君、大変な婦人《おんな》が僕の家へ舞込んで来ました」と三吉が言ってみた。「――切下げ髪にして、黒い袴《はかま》を穿《は》いてネ。突然《いきなり》入って来たかと思うと、説教を始めました。恐しい権幕《けんまく》でお雪を責めて行きましたッけ」
「大屋さんの御親類」とお雪も引取って、「その人が言うには、なんでも私の信心が足りないんですッて――ですから私の家には、こんなに不幸ばかり続くんですッて――この辺は、貴方《あなた》、それは信心深い処なんですよ」こう正太に話し聞かせた。
 不安な眼付をしながら、三吉は家の中を眺め廻した。中の部屋の柱のところには、お房がリボンの箱などを取出して、遊びに紛れていた。三吉は思付いたように、お房の方へ立って行った。一寸《ちょっと》、子供の額へ手を宛《あ》ててみて、復た正太の前に戻った。
 その時、表の格子戸の外へ来て、何かゴトゴト言わせているものが有った。
「菊ちゃんのお友達が来た」
 と言って、お雪は玄関の方へ行ってみた。しばらく彼女は上《あが》り端《はな》の障
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