三吉自身が薄く重なり合って映った。彼は自分で自分の悄然《しょんぼり》とした姿を見た。
 三吉は独りで部屋の内を歩いた。静かに過去ったことを胸に浮べた。この一夏の留守居は、夫と妻の繋《つな》がれている意味をつくづく思わせた。彼は、結婚してからの自分が結婚しない前の自分で無いに、呆《あき》れた。由緒《ゆいしょ》のある大きな寺院《おてら》へ行くと、案内の小坊主が古い壁に掛った絵の前へ参詣人《さんけいにん》を連れて行って、僧侶《ぼうさん》の一生を説明して聞かせるように、丁度三吉が肉体から起って来る苦痛は、種々な記憶の前へ彼の心を連れて行ってみせた。そして、家を持った年にはこういうことが有った、三年目はああいうことが有った、と平素《ふだん》忘れていたようなことを心の底の方で私語《ささや》いて聞かせた。それは殊勝気な僧侶の一代記のようなものでは無かった。どれもこれも女のついた心の絵だ。隠したいと思う記憶ばかりだ。三吉は、深く、深く、自分に呆れた。
 遠く雷の音がした。夏の名残《なごり》の雨が来るらしかった。


「只今《ただいま》」
 お雪は種夫を抱きながら、車から下りた。下婢《おんな》も下りた。
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