でいた深い倉――そういうものはどう成ったか。榊はそれを語ろうともしなかった。唯、前途を語った。やがて、若々しい、爽快《そうかい》な笑声を残して、正太と一緒に席を立った。
玄関のところで、正太はお俊から帽子を受取りながら、
「延ちゃん、頭脳《あたま》の具合は?」
「ええ、もうスッカリ癒《なお》った」とお延は無邪気に笑った。
「お医者様が病気でも何でも無いッて、そう仰《おっしゃ》ったら、延ちゃんは薬を服《の》むのもキマリが悪く成ったなんて」とお俊は笑って、正太の方を見ずに、お延の方を見た。
「静かな田舎《いなか》から、こういう刺激の多い都会へ出て来るとネ」と正太も庭へ下りてから言った。
叔父、甥、姪などの交換《とりかわ》した笑声は、客の耳にも睦《むつ》まじそうに聞えた。お延は自分が笑われたと思ったかして、袖で顔を隠した。お俊は着物の襟《えり》を堅く掻合《かきあわ》せていた。
郊外の道路には百日紅《さるすべり》の花が落ちた。一夏の間、熱い寂しい思をさせた花が、表の農家の前には、すこし色の褪《さ》めたままで未だ咲いていた。実が住む町のあたりは祭の日に当ったので、お俊はお延を連れて、泊
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