われなかった。
「現に、私が買いに行きました」と正太が言出した。「私もネ、しばらく気分が悪くて、伏枕《ふせ》っていましたから、何か水気のある物を食べたいと思って買わせに遣《や》るうちに……どうも話の様子では、普通《ただ》の水菓子を売る家の内儀《おかみ》さんでは無い。聞いてみると、御名前が榊さんだ。小泉の叔父の話に、よく榊さんということを聞くが……もしや……と思って、私が自分で買いに行ってみました。果して叔父さんの御馴染《おなじみ》の方だ。それから最早こんなに御懇意にするように成っちゃったんです」
「橋本君とはスッカリお話が合って了って」と言って、榊は精悍《せいかん》な眼付をして、「先生――何処でどういう人に逢うか、全く解りませんネ」
 榊の「先生」は口癖である。
 正太は時々お俊の方を見た。「叔父さん、種々《いろいろ》御心配下さいましたが、裏の叔父さんから頼んで頂いた方はウマく行きませんでした。そのかわり、他の店に口がありそうです。実は榊君も私と同じように兜町を狙《ねら》っているんです」
 その日の正太は元気で、夏羽織なぞも新しい瀟洒《さっぱり》としたものを着ていた。「今にウンと一つ働
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