到頭、三吉はこんな狂人《きちがい》じみた声を出すように成った。


 二人の前垂を持った商人《あきんど》らしい男が、威勢よく格子戸を開けて入って来た。一人は正太だ。今一人は正太が連れた来た榊《さかき》という客だ。
「今日《こんにち》は」
 と正太はお俊やお延に挨拶して置いて、連《つれ》と一緒に叔父の部屋へ通った。
 お俊は茶戸棚の前に居た。客の方へ煙草盆を運んで行った従姉妹は、やがて彼女の側へ来た。
「延ちゃん、貴方《あなた》持って行って下さいな――私が入れますからネ」
 と言って、お俊は茶を入れた。
 客の榊というは、三島の方にある大きな醤油屋《しょうゆや》の若主人であった。不図《ふと》したことから三吉は懇意に成って、この人の家へ行って泊ったことも有った。十年も前の話。榊なら、それから忘れずにいる旧《ふる》い相識《しりあい》の間柄である。唯、正太と一緒に来たのが、不思議に三吉には思えた。そればかりではない、醤油蔵の白壁が幾つも並んで日に光る程の大きな家の若主人が、東京に出て仮に水菓子屋を始めているとは。加《おまけ》に、若い細君が水菓子を売ると聞いた時は、榊が戯れて言うとしか三吉には思
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