「どうしたい」
 と叔父はお延の居るところで聞いた。彼は心の中で、よく帰って来てくれたと思った。
「なんだか急に父親《おとっ》さんや母親《おっか》さんの顔が見たく成ったもんですから……突然《だしぬけ》に家へ帰ったら、皆な驚いちゃって……」
 こう答えるお俊の手を、お延は娘らしく握った。お俊は皆なに心配させて気の毒だったという眼付をした。
 漸く三吉も力を得た。日頃義理ある叔父と思えばこそ、こうして働きに来てくれると、お俊の心をあわれにも思った。
 その日から、三吉はなるべく姪を避けようとした。避けようとすればするほど、余計に巻込まれ、蹂躙《ふみにじ》られて行くような気もした。彼は最早、苦痛なしに姪の眼を見ることが出来なかった。どうかすると、若い女の髪が蒸されるとも、身体《からだ》が燃えるともつかないような、今まで気のつかなかった、極《ご》く極く幽《かす》かな臭気《におい》が、彼の鼻の先へ匂って来る。それを嗅ぐと、我知らず罪もないものの方へ引寄せられるような心地がした。この勢で押進んで行ったら、自分は畢竟《つまり》どうなる……と彼は思って見た。
「俺は、もう逃げるより他に仕方が無い」
 
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