屋へ戻った。
「俊は最早帰って来ないんじゃないか」
夜が更《ふ》けるに随《したが》って、こんなことまで考えるように成った。
壁には、お房の引延した写真が額にして掛けてある。洋燈《ランプ》の光がその玻璃《ガラス》に映った、三吉は火の影を熟《じっ》と視《み》つめて、何をお俊が母親に語りつつあるか、と想像してみた。近づいて見れば、叔父の三吉も、従兄弟《いとこ》の正太とそう大した変りが無い……低い鋭い声で、こう語り聞かせているだろうか。それは唯《ただ》考えてみたばかりでも、暗い、遣瀬《やるせ》ない心を三吉に起させた。
「俊はまた、何を間違えたんだ。俺はそんな積りじゃ無いんだ」
臆病《おくびょう》な三吉は、こうすべてを串談《じょうだん》のようにして、笑おうと試みた。「叔父さん、叔父さん」と頼みにして来て、足の裏を踏んでくれるとか、耳の垢《あか》を取ってくれるとか、その心易《こころやす》だてを彼はどうすることも出来なかったのである。「結婚しない前は、俺もこんなことは無かった」こう嘆息して、三吉は寝床に就《つ》いた。
翌朝《よくあさ》、お俊は帰って来た。彼女は別に変った様子も見えなかった。
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