彼の虚《むな》しい手の中には、何物も抱締めてみるようなものが無かった……朝に晩に傍へ来る娘達が、もし自分の真実《ほんとう》の子供ででもあったら……この考えはすこし彼を呆《あき》れさせた。死んだお房のかわりに抱くとしては、お俊なぞは大き過ぎたからである。
 近所の人達は屋外《そと》へ出た。互に家の周囲《まわり》へ水を撒《ま》いた。叔父が跣足《はだし》で庭へ下りた頃は、お俊も気分が好く成ったと言って、台所の方へ行って働いた。夕飯過に、三吉は町から大きな水瓜《すいか》を買って戻って来た。思いの外《ほか》お俊も元気なので、叔父は安心して、勉めてくれる娘達を慰めようとした。燈火《あかり》を遠くした縁側のところには、お俊やお延が団扇《うちわ》を持って来て、叔父と一緒に水瓜を食いながら、涼んだ。
 女教師の家へも水瓜を分けて持って行ったお延は、やがて庭伝いに帰って来た。
「裏の叔父さんがなし、面白いことを言ったデ――『ああ、ああ、峯公(女教師の子息)も独りで富士登山が出来るように成ったか、して見ると私が年の寄るのも……』どうだとか、こうだとか――笑って了《しま》ったに」
 お延の無邪気な調子を聞くと
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