た。
 楽しい夜の空気はすべての物を包んだ。何もかも沈まり返っていた。樹木ですら葉を垂れて眠るように見えた。妙に、彼は眠られなかった。一旦《いったん》蚊帳の内へ入って見たが、復た這出《はいだ》した。夜中過と思われる頃まで、一枚ばかり開けた戸に倚凭《よりかか》っていた。
 短い夏の夜が明けると、最早《もう》立秋という日が来た。生家《さと》に居るお雪からは手紙で、酷《きび》しい暑さの見舞を書いて寄《よこ》した。別に二人の姪へ宛《あ》てて、留守中のことはくれぐれも宜しく頼む、と認《したた》めてあった。
 その日、お俊はすこし心地《こころもち》が悪いと言って、風通しの好い処へ横に成った。物も敷かずに枕をして、心臓のあたりを氷で冷した。お延は、これも鉢巻で、頭痛を苦にしていた。
 三吉は子供でも可傷《いたわ》るように、
「叔父さんは、病人が有ると心配で仕様が無い」
「御免なさいよ」
 とお俊は半ば身を起して、詫びるように言った。
 死んだ子供の墓の方へは、未だ三吉は行く気に成らないような心の状態《ありさま》にあった。時々彼は空《くう》な懐《ふところ》をひろげて、この世に居ない自分の娘を捜した……
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