た。「何を言出すんだ――今更信じるも信じないもないじゃないか」と三吉は言おうとしたが、それを口には出さなかった。彼は黙って、嬉しく悲しく妻の啜泣《すすりなき》を受けた。


 いよいよ豊世が名古屋へ発《た》つという前日、駒形の家の方からは、夏火鉢、額、その他勝手道具の類なぞを三吉の許へ運んで来た。その中には正太の意匠で、お俊の絵筆をかりて、小さな二枚戸に落葉を模様のように画かせた置床もあった。
 豊世も別れに来た。彼女は自分の使い慣れた道具が、叔父の家の方へ来ているのを眺めて、楽しい河畔の生活もいよいよ終を告げるかと思った。
「今も、一軒お別れに寄って参りましたら、その家の人が、橋本さんは何時《いつ》でもお別れにばかり寄るじゃありませんか、なんて……」
 こう豊世は叔父叔母に話して、落着いていたことも少い自分の生涯を聞いて貰いたいという風であった。
「豊世さん、こういう説がありますぜ」とその時、三吉は直樹の老祖母《おばあさん》の話だと言って、正太の生命《いのち》が三年持つものなら、豊世が傍に居ては一年しか持つまい、とあの七十の余までも生き延びた老祖母が言ったことをそこへ持出した。豊世は
前へ 次へ
全324ページ中308ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング