かッて、その人が私にくれた。私は一服しか貰って服まなかった。夫婦に成れなんて言ったぞなし――ええ、ええ、そんな馬鹿なことを」
「よかった、よかった――夫婦なぞに成らなくって、よかった」
こうお種が言ったので、皆な笑った。お仙も一緒に成って笑い転《ころ》げた。
「皆な二階へ行って休むことにしましょう。正太も仕事のある人だから、すこし休むが可い――さアさ、皆な行って寝ましょう」
とお種は先に立って行った。
「皆様の御床はもう展《の》べて御座います」と老婆も言葉を添えた。
一同は二階へ上って寝る仕度をした。三吉は寝られなかった。彼は一旦《いったん》入った臥床《とこ》から復た這出《はいだ》して、蚊帳《かや》の外で煙草を燻《ふか》し始めた。お仙も眠れないと見えて起きて来た。豊世も起きて来た。三人は縁側のところへ煙草盆を持出した。しまいには、お種も我慢が仕切れなく成ったと見え、白い寝衣のまま蚊帳の内から出て来た。
「正太さんはよく寝ましたネ」と三吉は蚊帳の外から覗《のぞ》いて見る。
「これ、そうっとして置くが可い。明日《あした》は大分|多忙《いそが》しい人だそうだから――」とお種は声を低くし
前へ
次へ
全324ページ中182ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング