多い傾斜の方で、毎年のように旅の思をさせた蛙の声は、まだ三吉の耳にあった。それを子供に真似《まね》て聞かせた。
「ヒョイヒョイヒョイヒョイヒョイ……グッグッ……グッグッ……」
「いやあな父さん」
とお房は寝ながら父の方を見て言った。自然と出て来た微笑《えみ》は僅《わず》かにその口唇《くちびる》に上った。
「房ちゃん、母さんが好い物を造《こしら》えて来ましたよ――すこし飲んでみておくれな」
とお雪は夫が買って来たミルク・フッドを茶碗《ちゃわん》に溶かして、匙《さじ》を添えて持って来た。子供は香ばしそうな飲料《のみもの》を一寸|味《あじわ》ったばかりで、余《あと》は口を着けようともしなかった。その晩から、お房は一層激しい発熱の状態《ありさま》に陥った。何となくこの児の身体には異状が起って来た。
「真実《ほんと》に、串談《じょうだん》じゃ無いぜ」
と三吉は物に襲われるような眼付をして、いかにしてもお房ばかりは救いたいということを妻に話した。不思議な恐怖は三吉の身体を通過ぎた。お雪も碌《ろく》に眠られなかった。
翌々日、お房は病院の方へ送られることに成った。病み震えている娘を抱起すよう
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