んと》に、何物《なんに》も食べたがらないのが一番心配です」
「ねえ、房ちゃん、御医者様の言うことを聞いて、早く快《よ》く成ろうねえ。そうすると、父さんが房ちゃんに好く似合うような袴を買ってくれるよ」
 こう父に言われて、お房は唯|黙頭《うなず》いた。やがて復《ま》た横に成った。
「ああ、父さんも疲れた」と三吉は子供の側へ身体《からだ》を投出すようにした。「菊ちゃんが居なくなって、急に家の内が寂しく成ったネ。ホラ、父さんが仕事をしてる時、机の前に二人並べて置いて、『父さんが好きか、母さんが好きか』と聞くと、房ちゃんは直に『父さん』と言うし――菊ちゃんの方は暫時《しばらく》考えていて、『父さんと母さんと両方』だトサ――あれで、菊ちゃんも、ナカナカ外交家だったネ」
「何方《どっち》が外交家だか知れやしない」とお雪は軽く笑った。
 病児を慰めようとして、三吉は種々なことを持出した。山に居る頃はお房もよく歌った兎《うさぎ》の歌のことや、それからあの山の上の家で、居睡《いねむり》してはよく叱られた下婢《おんな》が蛙《かわず》の話をしたことなぞを言出した。七年の長い田舎《いなか》生活の間、あの石垣の
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