、しみじみとした酔心地に成った。
「貴方。何かお遣《や》り遊ばせな」と老松が三吉の傍に居て言った。
「私ですか」と三吉は笑って、「私は唯こうして拝見しているのが楽みなんです」
 老松は冷やかに笑った。
「叔父さん、貴方の前ですが……ここに居る金ちゃんはネ、ずっと以前にある友達が私に紹介してくれた人なんです……私は未だ浪人していましたろう、あの時分この下の川を蒸汽で通る度に、是方《こっち》の方を睨んでは、早く兜町の人に成れたら、そう思い思いしましたよ……」
「ヨウヨウ」という声が酒を飲む妓達の間に起った。
「橋本さん」と老松は手を揉《も》んで、酒が身体《からだ》にシミルという容子《ようす》をした。「貴方――早く儲《もう》けて下さいよ」
 次第に周囲《あたり》はヒッソリとして来た。正太は帰ることを忘れた人のようであった。叔父が煙草を燻《ふか》している前で、正太は長く小金の耳を借りた。
「私には踊れないんですもの」と小金は、終《しまい》に、他《ひと》に聞えるように言った。
 酔に乗じた老松の端唄《はうた》が口唇《くちびる》を衝《つ》いて出た。紅白粉《べにおしろい》に浮身を窶《やつ》すものの早
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