た。
「オイ、お雪、今の洋服を出してくれ。正太さんが飯を食いに行くと言うから、俺《おれ》も一緒に話しに行って来る」
「男の方というものは、気楽なものですねえ」
 お雪は笑った。三吉は一旦《いったん》脱いだ白シャツに復た手を通して、服も着けた。正太は紺色の長い絹を襟巻《えりまき》がわりにして、雪踏《せった》の音なぞをさせながら、叔父と一緒に門を出た。
「何となく君は兜町《かぶとちょう》の方の人らしく成ったネ。時に、正太さん、君は何処《どこ》へ連れて行く積りかい」
「叔父さん、今夜は私に任せて下さい。種々《いろいろ》御世話にも成りましたから、今夜は私に奢《おご》らせて下さい」
 こう二人は話しながら歩いた。
 町々の灯は歓楽の世界へと正太の心を誘うように見えた。昂《あが》ったとか、降《さが》ったとか言って、売ったり買ったりする取引場の喧囂《けんごう》――浮沈《うきしずみ》する人々の変遷――狂人《きちがい》のような眼――激しく罵《ののし》る声――そういう混雑の中で、正太は毎日のように刺激を受けた。彼は家にジッとしていられなかった。夜の火をめがけて羽虫が飛ぶように、自然と彼の足は他《ひと》の遊
前へ 次へ
全324ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング