としたら何故父の傍に居なかったろう、何故叔父を遠くから眺めて置かなかったろう。
「可厭《いや》だ――可厭だ――」
 こう寝床の中で繰返して、それから復た種々な他の考えに移って行った。父も碌に眠らなかった。何度も寝返を打った。
 未だ夜の明けない中に、実は寝床《とこ》を離れた。つづいてお倉やお俊が起きた。
「母親さん、鶏が鳴いてるわねえ」
 と娘は母に言いながら、寝衣《ねまき》を着更《きが》えたり、帯を〆《しめ》たりした。
 赤い釣洋燈《つりランプ》の光はションボリと家の内を照していた。台所の方では火が燃えた。やがてお倉は焚落《たきおと》しを十能に取って、長火鉢の方へ運んだ。そのうちにお延やお鶴も起きて来た。
 小泉の家では、先代から仏を祭らなかった。「御霊様《みたまさま》」と称《とな》えて、神棚だけ飾ってあった。そこへ実は拝みに行った。父忠寛は未だその榊《さかき》の蔭に居て、子の遠い旅立を送るかのようにも見える、実は柏手《かしわで》を打って、先祖の霊に別離《わかれ》を告げた。
 お倉やお俊は主人の膳《ぜん》を長火鉢の側に用意した。暗い涙は母子《おやこ》の頬《ほお》を伝いつつあった。実は
前へ 次へ
全324ページ中120ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング