俊は涙なしにこの家の内の光景《ありさま》を見ることが出来なかった。
長い悲惨な留守居の後で、漸く父と一緒に成れたのは、実に昨日のことのように娘の心に思われていた。復た別れの日が来た。父を逐《お》うものは叔父達だ。頼りの無い家のものの手から、父を奪うのも、叔父達だ。この考えは、お俊の小さな胸に制《おさ》え難い口惜《くや》しさを起させた。可厭《いとわ》しい親戚の前に頭を下げて、母子《おやこ》の生命を托さなければ成らないか、と思う心は、一家の零落を哀しむ心に混って、涙を流させた。
叔父達に反抗する心が起った。彼女は余程自分でシッカリしなければ成らないと思った。弱い、年をとった母のことを考えると、泣いてばかりいる場合では無いとも思った。その晩は母と二人で遅くまで起きて、不幸な父の為に旅の衣服などを調《ととの》えた。
「母親《おっか》さん、すこし寝ましょう――どうせ眠られもしますまいけれど」
と言って、お俊は父の側に寝た。
紅い、寂しい百日紅《さるすべり》の花は、未だお俊の眼にあった。彼女は暗い部屋の内に居ても、一夏を叔父の傍で送ったあの郊外の家を見ることが出来た。こんなに早く父に別れる
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