が無い――一つ酔わせなけりゃ不可《いけない》」と榊が盃を差した。
「すこし御酔いなさいよ。貴方」と中年増の妓が銚子《ちょうし》を持添えて勧めた。
 三吉は酒が発したと見えて、顔を紅くしていた。それでいながら、妙に醒《さ》めていた。彼は酔おうとして、いくら盃を重ねてみても、どうしても酔えなかった。
 唯《ただ》、夕飯の馳走《ちそう》にでも成るように、心易《こころやす》い人達を相手にして、談《はな》したり笑ったりした。
「是方《こちら》は召上らないのね」
 と若い妓が中年増に言った。
 夜が更《ふ》けるにつれて、座敷は崩《くず》れるばかりであった。「何か伺いましょう」とか、「心意気をお聞かせなさいな」とか、中年増は客に対《むか》って、ノベツに催促した。若い方の妓は、懐中《ふところ》から小さな鏡を取出して、客の見ている前で顔中|拭《ふ》き廻した。
 榊は大分酔った。若い方が御辞儀をして帰りかける頃は、榊は見るもの聞くもの面白くないという風で、面《ま》のあたりその妓を罵《ののし》った。そして、貰って帰って行った後で、腐った肉にとまる蠅のように言って笑った。折角《せっかく》楽みに来ても、楽めない
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