の若い時代を可懐《なつか》しく思った。しばらく彼は、樺太《からふと》で難儀したことや、青森の旅舎《やどや》で煩《わずら》ったことを忘れた。旧い屋根船の趣味なぞを想像して歩いた。
「お揃《そろ》いですか」
と三吉は机を離れて、客を二階の部屋へ迎えた。
兜町の方へ通うように成ってから、榊は始めて三吉と顔を合せた。榊も、正太もまだ何となく旧家の主人公らしかった。言葉|遣《づか》いなぞも、妙に丁寧に成ったり、書生流儀に成ったりした。
「叔母さん、おめずらしゅう御座いますネ」
と正太は茶を持って上って来た叔母の髪に目をつけた。お雪は束髪を止《よ》して、下町風の丸髷にしていた。
お雪が下りて行った後で、榊は三吉と正太の顔を見比べて、
「ねえ、橋本君、先《ま》ず吾儕《われわれ》の商売は、女で言うと丁度芸者のようなものだネ。御客|大明神《だいみょうじん》と崇《あが》め奉って、ペコペコ御辞儀をして、それでまあ玉《ぎょく》を付けて貰うんだ。そこへ行くと、先生は芸術家とか何とか言って、乙《おつ》に構えてもいられる……大した相違のものだネ」
三吉は「復た始まった」という眼付をした。
「先生でなく
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