思った。
橋を渡ると、青い香も失《う》せたような柳の葉が、石垣のところから垂下っている。細長い条《えだ》を通して、逆に溢《あふ》れ込む活々《いきいき》とした潮が見える。その辺まで行くと、三吉の家は近かった。
「榊君――小泉の叔父の近所にネ、そもそも洋食屋を始めたという家が有る。建物なぞは、古い小さなものサ。面白いと思うことは、僕の阿爺《おやじ》が昔|流行《はや》った猟虎《らっこ》の帽子を冠《かぶ》って、酒を飲みに来た頃から、その家は有るんだトサ。そこへ叔父を誘って行こうじゃないか……一夕昔を忍ぼうじゃないか」
「そんなケチ臭いことを言うナ。そりゃ、今日の吾儕《われわれ》の境涯では、一月の月給が一晩も騒げば消えて了うサ。それが、君、何だ。一攫千金《いっかくせんきん》を夢みる株屋じゃないか――今夜は僕が奢《おご》る」
二人は歩きながら笑った。
父の夢は子の胸に復活《いきかえ》った。「金釵《きんさ》」とか、「香影《こうえい》」とか、そういう漢詩に残った趣のある言葉が正太の胸を往来した。名高い歌妓《うたひめ》が黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》を掛けて、素足で客を款待《もてな》したという父
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