人間は一度|可恐《おそろ》しい目に逢着《でっくわ》してみ給え、いろいろなことを考えるように成るよ……子供が死んでから、僕は研究なんてことにもそう重きを置かなく成った……」
明るい二階で、日あたりを描いた額の画の上に、日があたった。春蚕《はるご》の済んだ後で、刈取られた桑畠《くわばたけ》に新芽の出たさま、林檎《りんご》の影が庭にあるさまなど、玻璃《ガラス》越《ご》しに光った。お雪は階下《した》から上って来た。
「父さん、障子が張れましたネ」
「その額を御覧、正太さんがああいう風に掛けて下すった」
「真実《ほんと》に、正太さんはこういうことが御上手なんですねえ」
とお雪は額の前に立って、それから縁側のところへ出てみた。
「叔母さん、御覧なさい」
と正太も立って行って、何となく江戸の残った、古風な町々に続く家の屋根、狭い往来を通る人々の風俗などを、叔母に指してみせた。
塩瀬というが正太の通う仲買店であった。その店に縁故の深い人の世話で、叔父の三吉にも身元保証の判を捺《つ》かせ、当分は見習かたがた外廻りの方をやっていた。正太に比べると、榊の方は店も大きく、世話する人も好く、とにかく
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