の仕事まで、どれ程迷惑を蒙《こうむ》ったか知れない。ああいう兄貴の弟だ――直ぐそれを他《ひと》に言われる。実に、油断も間隙《すき》もあったもんじゃ無い。どうだ、そのうちに一度兄貴の家へ集まるまいか。どうしても東京に置いちゃ不可《いかん》……満洲の方にでも追って遣らにゃ不可……今度行ったら、俺がギュウという目に逢わせてくれる」
 小泉の家の名誉と、実の一生とを思うのあまり、森彦は高い調子に成って行った。この兄は、充実した身体《からだ》の置場所に困るという風で、思わず言葉に力を入れた。その飛沫《とばしり》が正太にまで及んで行った。兜町《かぶとちょう》で儲《もう》けようなどとは、生意気な、という語気で話した。正太は幼少の頃、この兄の手許《てもと》へ預けられたことが有るので、どうかすると森彦の方ではまだ子供のように思っていた。
 部屋の障子の開いたところから、青桐《あおぎり》の葉が見える。一寸《ちょっと》三吉は廊下へ出て、町々の屋根を眺めた。
「お前が探して来た家は、二階があると言ったネ。二階も好いが、子供にはアブナイぞ。橋本の仙(正太の妹)なぞは幼少《ちいさ》い時分に楼梯《はしごだん》から落ちて、それであんな風に成った――夫婦は二階で寝ていて知らなかったという話だ――」
「でも、お仙さんは、房ちゃんと同じ病気をしたと云うじゃ有りませんか」
「何でも俺はそういう話を聞いた」
 三吉は森彦の前へ戻って、眼に見えない二階の方を見るように、しばらく兄の顔を見た。
 間もなく三吉はこの二階を下りた。旅舎を出てから、「よく森彦さんは、ああして長く独《ひと》りで居られるナア」と思ってみた。電車で新宿まで乗って、それから樹木の間を歩いて行くと、諸方《ほうぼう》の屋根から夕餐《ゆうげ》の煙の登るのが見えた。三吉は家の話を持って、妻子の待っている方をさして急いだ。


 家具という家具は動き始めた。寝る道具から物を食う道具まで互に重なり合って、門の前にある荷車の上に積まれた。
「種ちゃん、彼方《あっち》のお家の方へ行くんですよ」
 とお雪は下婢《おんな》の背中に居る子供に頭巾《ずきん》を冠《かぶ》せて置いて、庭伝いに女教師の家や植木屋へ別れを告げに行った。こうして、思出の多い家を出て、お雪は夫より一足先に娘達の墳墓の地を離れた。
 町中にある家へ、彼女が子供や下婢と一緒に着いた時は、お延が皆なを待受けていた。そこは、往時《もと》女髪結で直樹の家へ出入して、直樹の母親の髪を結ったという老婆《ばあさん》が見つけてくれた家であった。その老婆の娘で、直樹の父親の着物なぞを畳んだことのある人が、今では最早《もう》十五六に成る娘から「母親《おっか》さん」と言われる程の時代である。極《ご》く近く住むところから、その人達が土瓶《どびん》や湯沸《ゆわかし》を提《さ》げて見舞に来てくれた。お雪は手拭《てぬぐい》を冠ったり脱《と》ったりした。
 静かな郊外に住慣れたお雪の耳には、種々な物売の声が賑《にぎや》かに聞えて来た。勇ましい鰯売《いわしうり》の呼声、豆腐屋の喇叭《らっぱ》、歯入屋の鼓、その他郊外で聞かれなかったようなものが、家の前を通る。表を往《い》ったり来たりする他の主婦《かみさん》で、彼女のように束髪にした女は、殆《ほと》んど無いと言っても可《い》い。この都会の流行に後《おく》れまいとする人々の髪の形が、先《ま》ず彼女を驚かした。
 実の家からは、例の箪笥《たんす》や膳箱《ぜんばこ》などを送り届けて来た。いずれも東京へ出て来てからの実の生活の名残だ。大事に保存された古い器物ばかりだ。お雪はそれを受取って、自分の家の飾りとするのも気の毒に思った。
 夫は荷物と一緒に着いた。
「こういうところで、田舎風の生活をして見るのも面白いじゃないか」
 と三吉はお雪に言った。お雪はよく働いた。夕方までには、大抵に家の内が片付いた。荷車に積んで来たゴチャゴチャした家具は何処《どこ》へ納まるともなく納まった。改まった畳の上で、お雪は皆なと一緒に、楽しそうに夕飯の膳に就《つ》いた。
 暮れてから、かわるがわる汗を流しに行った女達は、あまり風呂場が明る過ぎてキマリが悪い位だった、と言って帰って来た。下婢は眼を円くして飛んで来て、「この辺では、荒物屋の内儀《おかみ》さんまで三味線を引いています」とお雪に話した。長唄や常磐津《ときわず》が普通の家庭にまで入っていることは、田舎育ちの下婢にめずらしく思われたのである。
「延ちゃん、一寸そこまで見に行って来ましょう」
 とお雪は姪を誘った。
 郊外の夜に比べると、数えきれないほどの町々の灯がお雪の眼にあった。紅――青――黄――と一口に言って了《しま》うことの出来ない、強い弱い種々《さまざま》な火の色が、そこにも、ここにも、都会の夜を照らしていた
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